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千葉県成田市にある空港で、関東二大空港の一つ。2004(平成16)年3月までの名称は「新東京国際空港」。
滑走路の延長(暫定2180m→2500m)は、2009(平成21)年10月22日供用開始。
旅客ターミナルは第1と第2(1992(平成4)年12月6日オープン)の二つがある。
ターミナル間の移動は連絡バスを使って15分程掛かるため、ターミナルを間違うと大変なことにもなりかねない。
特に、近年増加している共同便(コードシェア便)は、「運航会社側」のターミナルになるため、自分のチケットの航空会社のターミナルと一致しないので注意が必要である。
また、両ターミナル間の航空会社の割り振りは離発着数のバランスが取れておらず、さらに近年のアライアンスのパートナーも考慮されていないため、殆どのコードシェア便が自社運航便とは異なるターミナルから発着するという状況となった。これを是正するため、第1旅客ターミナルの改修が完了してから、大幅に組み替えられた。
空港へのアクセスとして、道路は東関東自動車道の成田IC/JCTと接続する新空港自動車道と国道295号が接続されている。
鉄道はJR成田線(特急成田エクスプレス、快速エアポート成田)と京成本線(スカイライナー、特急、快速)が接続されており、第1ターミナルの下に成田空港駅、第2ターミナルの下に空港第2ビル駅がある。
また、京成電鉄東成田線と芝山鉄道の東成田駅もあるが、こちらはほとんど利用されていない。
首都圏の場合、空港は国際線の成田と国内線の羽田と住み分けがなされているため、国際線・国内線の乗り継ぎは、両空港間を跨がねばならない。この場合、航空便は殆ど無いため地上移動によらねばならず、速いが高いリムジンバス(75分、3,000円)か、時間は掛かるが安い京成電鉄のエアポート快速特急(105分、1,560円)を利用することになる。
開港以来重大な事故はなかったが、2009(平成21)年3月23日06:50(22日@951)頃、支那・広州発のアメリカの定期貨物便「FedEx Express Flight 80」(MD-11型機、乗員2名)がA滑走路で着陸に失敗、横転し炎上する事故が発生した。事故原因は定かではないが、横風に煽られた説や、ウィンド・シアが発生した説などがある。
火災は約50分後に鎮圧されたが、残骸などが大量にあるため、回収と滑走路の補修のためにこの日はA滑走路は閉鎖され大型機の離着陸が不可能となった。再開は翌日、2009(平成21)年3月24日09:10(@048)である。
この事故で、乗員は2名とも死亡したが、死亡事故は成田空港開港以来初であった。
戦後復興も一段落し、高度成長期に入り出すと、国際線の需要が高まりだした。
特に首都圏ではこの傾向が顕著だったが、既存の東京国際空港(羽田空港)は手狭で、その需要に応えることは出来なかった。
そこで、それに代わる新しい国際空港の建設計画が練られるようになり、1962(昭和37)年、政府は新国際空港の建設方針を閣議決定する。
1965(昭和40)年11月、政府は建設予定地を千葉県富里村(現在の富里市)に内定したが、地元住民の抵抗が非常に強く(富里反対闘争)、話し合いは難航した。
このため1966(昭和41)年7月4日、佐藤内閣は国有地の下総御料牧場があり、用地買収が容易であると考えられた千葉県成田市三里塚に予定地を変更した。
しかし寝耳に水であった三里塚の住民はこの政府決定に大反発、成田空港反対同盟を結成して反対活動(三里塚闘争)を始めた。これに反帝学評(革労協)、第四インター、中核派などの新左翼の過激派が合流、反対運動は過激さを増す一方で、政府の当初目論見は大きく外れることとなった。
政府は必要最低限の土地の買収を終え、1973(昭和48)年には一本目の滑走路の建設に着手した。焦った反対派はまだ残っている土地に航空機の進路を妨害するように岩山大鉄塔を建てて、開港を妨害した。
政府は話し合いによって解決を試みようとしたが、埒が明かないため1977(昭和52)年5月6日、鉄塔の撤去に踏みきった。ここでも、反対派の救護に当たっていたボランティアの頭に機動隊のガス弾が直撃して死亡している。また、三日後には暴徒と化した過激派が交番を襲撃し、警官一名を殺害している。
このような状況下でも何とか空港の建設は完了し、開港を4日後に控えた1978(昭和53)年3月26日、厳重な警戒が敷かれている中の空港に過激派ゲリラが突入し、管制塔内の機器を破壊した。機器の修理のため開港は延期され、開港は1978(昭和53)年5月20日となった。また、突入の際に活動家1名が火傷を負い2ヶ月後に死亡している。
開港後も反対派の運動は続き、現在も未解決のままである。
反対運動が大きくなるにつれ、その内容も当初の目的を忘れた単なる暴徒と同レベルとなり、現在では殆ど国民の支持は無い。何よりこの反対運動のせいで空港機能の拡充は遅れ、未だに計画は完了出来ずにいる。
東京都心から60kmと遠く離れた空港であるため、そのアクセスのために成田新幹線やリニアモーターカーの建設が予定されていたが、中止された。代わりに建設されたJR線や京成線も、営業開始は開港から大分経ってからのことである。
さらに、反対派のテロ行為を防ぐため、空港の出入りは厳重なチェックを受けねばならず、実に使いにくい空港となってしまった。
運用時間にも制限が大きく、ジェット燃料輸送の本格的パイプラインの建設も大幅に遅れ(完成は開港から5年後の1983(昭和58)年8月8日)、完成までは列車などによって輸送していた。
これだけ不便で使用しにくい空港ともなれば、首都圏第三空港や羽田再拡張事業の話が出てくるのも当然である。そうなれば、相対的に成田の地位の低下は免れず、それは地元産業の地盤沈下も伴うものとなる。これは自業自得とも言えることであるが、羽田の再拡張事業が始まり、羽田の国際線再開が検討され出すと、その反対運動を繰り広げている。
これは大阪国際空港の騒音公害で住民訴訟を起こし、空港閉鎖を求めていた一方、関西国際空港の建設が決まり、いざ空港の閉鎖が決まった途端に残留運動を行なった伊丹市民よりも質が悪いと言わざるを得ない。
開港直前に過激派ゲリラが突入され機器が破壊される占拠事件のあった管制塔。
ある種の記念碑的な存在であったが、老朽化のため新管制塔が建てられ、旧管制塔となった。この旧管制塔も2018(平成30)年に撤去されることが決まった。警官に殉職者まで出した成田闘争の象徴の一つが姿を消すこととなった。
日本の首都圏の国際線を担う空港でありながら滑走路が長く一本しかないという、世界的に見ても異常な状態が続いた。
2番目の滑走路は当初から計画されていたが、開港自体が過激派に妨害されたこともあり長く建設できずにいた。しかし2002(平成14)年にサッカーワールドカップが開催されるため、この日までのB滑走路運用開始が目指された。
滑走路予定地はその大半の買収が完了していたが、僅かに反対派の一坪所有地が点在し続けていた。このため建設位置を北側に800mずらし、長さも予定の2,500mから2,180mに短縮した「暫定滑走路」として1999(平成11)年12月から建設が開始された。
難航した空港建設とは打って変わりB滑走路建設は順調に進み、予定よりも1ヶ月早い2001(平成13)年10月31日に完成。運用開始も、2002(平成14)年5月20日の予定から1ヶ月早められて2002(平成14)年4月20日となった。
しかし暫定滑走路として何とか建設された2,180mのB滑走路は地方管理空港(旧・第三種空港)の滑走路に匹敵する短さであり、B767程度の中型機までしか利用できなかった。
今後の航空需要に対応すべく、当初の予定通りの2,500m滑走路の整備が目指された。南側は過激派の妨害があるため北に延伸、北方向には国道51号が存在したが、飛行機の荷重に耐えられる新トンネルが掘られ、無事に2,500mに延伸された。
B滑走路の北への延伸は実現したが、B滑走路の南側の誘導路予定地には過激派の団結小屋「天神峰現地闘争本部」なるものがあり、誘導路は長く「への字」に曲がったままであった。
この小屋は開港前の1966(昭和41)年に建てられたもので、過激派の元幹部が自宅の敷地の一部を提供し、建設されたものである。これも成田新法こと「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法」(現在の法律名は成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法)により1990(平成2)年に封鎖された。
土地は成田国際空港会社(NAA)が2003(平成15)年に元幹部側から買収、2004(平成16)年には土地の明け渡しを求め過激派を提訴した。
2011(平成23)年5月の東京高裁判決に基づき、成田国際空港会社は千葉地裁に建物撤去の仮執行申し立て、2011(平成23)年8月6日未明、千葉地裁が強制執行した。
現場は過激派の妨害を防ぐため高いフェンスで囲まれ、周囲を千葉県警機動隊などで包囲、地裁の執行官らが2011(平成23)年8月6日04:00(5日@833)頃に鉄筋3階建ての本部内に入ったとする。解体工事は2011(平成23)年8月6日05:00(5日@874)頃から始まり、クレーン車などを使って撤去された。
撤去されても過激派は懲りずに最高裁まで上告したが、最高裁第2小法廷(古田佑紀裁判長)は2012(平成24)年1月25日付で反対派の上告を棄却し、撤去などを命じた2審東京高裁判決が確定した。
50音順。()で併記するものは、チェックインカウンター。
団体旅行の場合、第1ターミナル北ウイングではGカウンターを使用する。
団体旅行の場合、第1ターミナル南ウイングではJ・Kカウンターを使用する。
団体旅行の場合、第2ターミナルでは北団体カウンターと南団体カウンターを使用する。
2003(平成15)年の成田の実績は、次の通り。
国際貨物に限定すれば、香港国際空港(チェク・ラップ・コック)の207万4000トンに次いで世界2位の162万2000トン(いずれも2001年)であった。
2000年度 | 2001年度 | 2002年度 | |
---|---|---|---|
総数 | 133,046 | 129,000 | 176,365 |
1日平均 | 365 | 353 | 490 |
A滑走路 | 133,046 | 129,000 | 131,644 |
B滑走路 | ‐ | ‐ | 44,721 |
国際線 | 127,980 | 124,670 | 165,389 |
国内線 | 5,066 | 4,330 | 10,976 |
単位:人。
2000年度 | 2001年度 | 2002年度 | ||
---|---|---|---|---|
総数 | 27,714,796 | 24,891,113 | 29,993,321 | |
1日平均 | 75,931 | 68,195 | 82,173 | |
国際線 | 日本人 | 18,390,623 | 15,685,849 | 18,527,494 |
外国人 | 5,982,469 | 5,980,621 | 7,173,331 | |
通過客 | 2,542,770 | 2,553,094 | 3,185,124 | |
国内線 | 798,934 | 671,549 | 1,107,372 |
単位:トン。
2000年度 | 2001年度 | 2002年度 | |
---|---|---|---|
総数 | 1,842,558 | 1,603,940 | 2,030,149 |
1日平均 | 5,048 | 4,394 | 5,562 |
A滑走路 | 677,517 | 536,485 | 716,354 |
B滑走路 | 863,473 | 791,481 | 911,786 |
国内線 | 301,568 | 275,974 | 402,009 |
旅客便1,000便以上、貨物便500便以上(2002年度)。
日本航空 | 31,996回 |
ノースウエスト航空 | 15,102回 |
全日本空輸 | 11,270回 |
ユナイテッド航空 | 5,105回 |
大韓航空 | 3,647回 |
日本エアシステム | 3,518回 |
キャセイパシフィック航空 | 3,209回 |
アメリカン航空 | 3,007回 |
カンタス航空 | 2,809回 |
アシアナ航空 | 2,797回 |
シンガポール航空 | 2,698回 |
チャイナエアライン | 2,698回 |
日本アジア航空 | 2,374回 |
コンチネンタル・ミクロネシア航空 | 2,239回 |
タイ国際航空 | 2,214回 |
中国国際航空 | 2,074回 |
エールフランス航空 | 1,943回 |
JALウェイズ | 1,867回 |
中国東方航空 | 1,473回 |
マレーシア航空 | 1,440回 |
ブリティッシュ・エアウェイズ | 1,434回 |
コンチネンタル航空 | 1,402回 |
エバー航空 | 1,392回 |
エア・カナダ | 1,368回 |
フィリピン航空 | 1,332回 |
ルフトハンザ・ドイツ航空 | 1,318回 |
エアージャパン | 1,185回 |
アリタリア航空 | 1,016回 |
フェデラル・エクスプレス | 5,808回 |
日本貨物航空 | 4,263回 |
日本航空 | 4,165回 |
ノースウエスト航空 | 3,821回 |
ユナイテッド・パーセル・サービス(UPS) | 1,414回 |
ポーラエアカーゴ | 775回 |
キャセイパシフィック航空 | 770回 |
全日本空輸 | 589回 |
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