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東急グループの創業者。苦学の末、東急グループを一代で築き上げた実業家である。
鉄道院(後の鉄道省)監督局総務課長を経て、武蔵野電気鉄道(後の東京横浜鉄道)常務に就任する。
目黒蒲田鉄道専務に就任後、目蒲鉄道と田園都市株式会社(後の東急不動産のベース)を合併し目黒蒲田電鉄を作り、以降も盛んに合併・買収や会社設立を続けた。そして東横、目蒲鉄道各社長に就任後、両社を合併し東横電鉄とした。
第二次世界大戦も終盤頃となった1942(昭和17)年には、戦時政策のため東横電鉄、小田急電鉄、京浜電鉄を合併し東京急行電鉄に改称した。
更に2年後の1944(昭和19)年は東条内閣の運輸通信相に就任。京急は遂に京王電気軌道をも合併し、五島は私鉄の覇者となったのである。
戦後には公職追放された。
更に財閥解体の憂き目に遭い、1948(昭和23)年には東横百貨店、京王帝都電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄は分離独立させられた。
その後、1951(昭和26)年には追放解除されたことを受けて東急相談役に就任して以降、五島は再び強盗慶太の本領を発揮する。
1952(昭和27)年には東急会長に就任、1953(昭和28)年には不動産部門を分離独立し東急不動産を設立し会長に就任した。
東横百貨店を再び傘下に戻し、東横百貨店に白木屋を合併した。また東映の再建にも取り組んだ。なお、東横百貨店が東急百貨店となったのは五島の没後である。
箱根の観光開発については西武と企業戦争「箱根山戦争」を繰り広げたが、手段を選ばない戦争は西武の方が上手だった。
彼は文化事業にも積極的に関わっている。
彼が蒐集した日本や東洋の古美術を展示する五島美術館を設立した。
また五島育英会を設立し、武蔵工業大学や東横学園女子短期大学などの学校を経営した。
五島の最大の功績は、「東急多摩田園都市」を作り上げたことである。
彼はその事業の鬼ぶりから「強盗慶太」の異名を取り恐れられたが、本人はその名を気に入っていたようだ。
彼は時に手段を選ばない合併や買収もし、首都圏の西南部を網羅する大鉄道王国を築き上げた。そして沿線開発に着手し、道路や鉄道を通すことで土地の価値を高めるという経営手法も確立したのである。この成果が東急多摩田園都市であった。
当時五島のライバルは西武コンツェルンの総帥、西武グループの創業者である「ピストル堤」こと堤康次郎だった。なぜピストル堤なのかと言うと、彼はピストルで撃たれたからである。
五島はピストル堤へのライバル心を否定していたが、事実上のライバルだったことに疑う余地はない。
この西武との鎬を削る熾烈な企業戦争は箱根山戦争や軽井沢の陣などと呼ばれている。この争いの最終的な軍配は西武に上がった。
五島は当初、箱根〜東急多摩田園都市〜渋谷を高速道路で繋ぎ、高速道路によってアクセスを良くし東急多摩田園都市の価値を高める予定だった。
しかし、第三京浜や東名高速道路などが作られることとなり、やむを得ず交通手段を鉄道(現在の東急田園都市線)に変更することとなった。この構想は、現在では強盗慶太の箱根ターンパイク構想とも呼ばれている。
五島がこれだけの仕事を成しえた最大の理由は、人情もろい彼自身の人柄にあったといわれる。その人柄に引かれ、人や仕事が勝手に五島の元へとやってきたのである。
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