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かつて杉並区が、自分で出したゴミを自分で処理することを拒み、結果、杉並区内がゴミの山となった事件。
その昔、特別区(23区)内のゴミ処理は東京都が行なっていたが、実際に焼却や埋め立てをする自治体は江東区であった。
都では昭和30年代より各区内でゴミ処理をするための焼却工場建設のための計画を発表しており、これに対応するべく杉並区も区内にゴミ清掃工場建設を作ろうとするも、エゴ丸出しのプロ市民の妨害の前に頓挫、その間に、代わりにゴミ処理をしていた江東区の不興を買い、やがてゴミ処分を拒絶されたためゴミ収集すらままならなくなり、当然ながら区内にゴミが溢れた。
これには流石の杉並区民も弱り果て、遂に清掃工場を作る羽目になったという一連の事件を、現在は「杉並ゴミ戦争」などとして語り継いでいる。
今のところ、このような馬鹿を晒したのは杉並区だけなので東京を代表して「東京ゴミ戦争」とも呼ばれるが、もうじき小金井市が第二の馬鹿を晒しそうであるので、ここでは「杉並ゴミ戦争」と呼んでおくことにする。
1982(昭和57)年、京王井の頭線の高井戸駅最寄り、杉並区高井戸東3丁目7-6に「杉並清掃工場」が完成し、事件は解決している。
焼却能力は600トン/日で、廃熱は隣接する高井戸地域区民センターに供給され、温水プールなどに使われていた。
但し、老朽化に伴い2012(平成24)年に運転停止され、現在は建て替え中である。2017(平成29)年に新しい清掃工場が竣工予定となっている。
東京都の特別区は、昭和30年代の各区内でゴミ処理をするという都の方針に従い、杉並区も区内に清掃工場を作る計画が持ち上がり、そして昭和40年代になり、その焼却場の場所は高井戸と決まった。
これは、それまで特別区のゴミの大半は江東区で処分しており、しかし焼却が追いつかないため大半がそのまま埋め立てられていたためで、この不公平な状況から江東区は不満を上げ、都は、特別区は区内でゴミを処分する方針を決めたからである。
区内で処理ということは、区内にゴミ焼却場を建設し、そこでゴミを燃やし処分することを意味する。発生した灰の埋め立ては他の自治体に依頼するとしても、生ゴミを燃やして灰にするまでは、衛生上、ゴミを発生させた自治体の責任となる。
ところが、プロ市民が区内への「ゴミ処理施設建設反対」を叫んだため建設は頓挫、遂に戦争が勃発した。
ゴミが杉並区内で処理できないとなれば、他区に大金を払ってでも処理してもらうしかない。さもなくばゴミの山である。
その相手が江東区だっのたが、生ゴミを燃やさずに江東区の夢の島(14号埋め立て地)まで運んだことから、江東区にはハエが大量発生した。
このままではまずいと判断した杉並区と東京都は、杉並区内の数ヶ所に一時的なゴミ集積所を作ろうとしたが、1972(昭和47)年12月16日、プロ市民がテロ行為に及んで工事の妨害をし、実現しなかった。同時期、東京都はゴミ焼却場の建設のために強制収用手続も開始していた。
事情を知った江東区民は激怒、1972(昭和47)年12月22日、ついに区長ふくむ江東区民は、杉並区から来る清掃車を実力で阻止、区と都が「早急な集積所建設」を約束した午後までゴミ収集車は搬入できず、結果として杉並区内ではゴミの収集が出来ず、ゴミ集積場には生ゴミが溢れ悪臭やハエが大量発生した。
しかしプロ市民はまだ懲りず妨害を継続、1973(昭和48)年5月15日に、焼却場建設に関する会合に乱入して会合を流会にし、翌週の5月21日の会合にも同様に乱入して流会にした。杉並区は改善する気がないと判断され、遂に江東区民は大激怒、翌日5月22日には再び江東区民が杉並区から来る清掃車を実力で排除、追い返してしまったのである。
改善しようとしない状況で、東京都清掃労働組合も流石に杉並区には共感できぬと判断して江東区に協調、杉並区でのゴミ収集をボイコットした。
この結果、杉並区内は当然ながら生ゴミで溢れかえることになり、すぐさま都は早急の解決を江東区に約束。
江東区は、長く東京のゴミ処理を一手に背負わされたという積年の恨み辛みがあるためこの件では一歩も引く気がなく、杉並区だけでなく都全体のゴミを対象に、全面的な処理を拒絶する姿勢を示した。
しかしプロ市民のテロは止むこと無かった。また東京都がプロ市民に1973(昭和48)年11月5日を期限とした回答を求めるがプロ市民はこれに応じず、極左として知られた時の美濃部亮吉知事すらも激怒、強制収用手続きを再開することになる。
プロ市民は、これに対抗する収用手続き取り消し訴訟を起こすが、東京地裁にて勧告がなされ1974(昭和49)年11月21日に和解が成立、ようやくゴミ焼却場の場所も決まり、1978(昭和53)年から建設が始まり、1982(昭和57)年に完成したことで事態は収拾したのである。
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