福島県立大野病院産婦人科医逮捕事件

読み:ふくしまけんりつ・おおのびょういん・さんふじんかい・たいほじけん
品詞:名詞

福島県立大野病院の産婦人科医、加藤克彦医師が、冤罪で福島県警に不当逮捕された事件。日本の周産期医療の崩壊を招いた。

目次

2004(平成16)年12月、ある女性は福島県立大野病院で帝王切開手術を受けたが、出血多量で母体が死亡した。これは、

  1. 前置胎盤癒着胎盤が合併するという極めて希なケースが
  2. 産婦人科医が一人しかいない
  3. 僻地の病院で起こり
  4. 患者は不幸な転帰(病死)をとった

という件である。

病態概要

患者は、前置胎盤に加えて癒着胎盤であった。想定される中でも、最悪の病態である。

前置胎盤とは、胎盤が「変なところ」にくっついてしまっていることで、患者は高確率で死ぬ。

癒着胎盤とは、胎盤が「がっちり」くっついて剥がれないことで、患者はほぼ間違いなく死ぬ。しかし、事前の検査で知ることはできない。

インフォームド・コンセント

患者が前置胎盤であることは、事前の検査で分かっていた。

この患者は前回も前置胎盤であり、医師は安全のため大学病院を勧めた。しかし「大学病院は遠く、交通費がかかる」として拒否した。

また、この病態では子宮摘出も検討せねばならないが、患者は、三人目も欲しいとし、子宮温存を強く希望した。

医師法によると、医師は正当な事由がない限り治療拒否をしてはならない、とされており、患者がこの病院で産みたいという以上、無理強いは出来なかった。

手術

開腹後に癒着胎盤が発覚し、出血が発生した。帝王切開は産科医と外科医立ち会いの元での手術であり、技術的には問題は無かったと考えられるが、大量出血に対応するだけの血液備蓄がなかったのが不幸であった。

我が国は輸血用血液が常に不足しており、無駄に廃棄される可能性が高い僻地の病院での血液備蓄を許す余裕がない、という不幸も重なっている。

こうして、患者は不幸にも助からなかった。

医療の限界

母体が亡くなったことは残念だが、前置胎盤に癒着胎盤という生存率の低い病態で、せめて児を救えたことは評価されるべきである。何もしないで放置すれば、母子共に確実に死亡していたのである。

この件においては悪人はいない。患者が運悪く、癒着胎盤という重病に罹患したに過ぎない。

たとえ日本一あるいは世界一の名医であっても、救えない命はある。評判の良い医師にかかって最善を尽くしてもらって、だめなら潔く運命を受け入れるしかない。

病院側対応

病院と医師の、処置、判断、手続き等には一切の過誤は認められなかったが、不幸な結果に至った以上、何らかの償いが必要なのではないか、と病院内部で検討された。結果、「過誤があったことにして病院から賠償金を支払う決定」をした。

遺族(特に患者の父親)はそれでも執刀した医師に対する恨みが消えず、遺族と共に墓参りに同行した際、墓前での土下座の要求に対して医師はそれに従った。

逮捕、起訴

しかし、業務上過失致死ならびに医師法(異状死の届け出義務)違反の容疑で、一年以上後の2006(平成18)年2月18日、責任医師だった加藤克彦医師は逮捕された。県警が、越えてはならない一線を越えてしまったことから、学会と医会には激震が走った。

客観的に見てミスが無いことは明らかで、証拠隠滅の可能性も逃亡の可能性も無いにも拘わらず、県警はわざわざ逮捕当日にマスコミを呼び、カメラの前で不当逮捕するという異常な行動をとった。医師を逮捕した富岡警察署は、後に県警本部長賞として表彰された。

そして、田中憲一・新潟大学医学部産科婦人科学教室教授が検察側鑑定書を書き、これを元に医師は2006(平成18)年3月10日に起訴された。この無謀な検事は、片岡康夫福島地検次席検事だとされている。

学会と医会の反応

声明

医師の起訴を受け、社団法人 日本産科婦人科学会の理事長と、社団法人 日本産婦人科医会の会長が即日、連名で声明を発表している。

これまでも医師が逮捕され有罪となった例は数あるが、このような声明が出た例は今回が初めてである。

なぜならば、これは「ミス」ではないからであり、医療ミスなどと同列に扱うことは不当であり、献身的に過重な負担に耐えてきた医師個人の責任を追求することを看過することは学会も医会もできないからである。

また、全国の医師会(本件の医師とは利害関係がない)が次々と記者会見を開き、そして抗議声明を発表している。

同様に、医師会から全国規模でこのような声明が出た例も、今回が初めてである。

辯護

この医師の行なった手術は手順に問題が無かっただけではなく、レベルとしてもかなり高度であり、日頃の勉強と鍛錬が伺える内容だったと判断された。

これで、医師のアドバイスを拒否して医師に無理強いをした患者に医療ミスと言われたのでは、日本中の医師が以降何もできなくなる。

このため、裁判では学会と医会は総出で、この医師の辯護(弁護)にあたった。

裁判

争点

検察側は「剥離を中止し子宮を摘出すべきだったが、無理に続けて失血死させており、過失は明白だ」と主張した。

一方、辯護(弁護)側は、「剥離を始めれば、完了させて子宮の収縮による止血作用を期待するのが産科医の常識で、臨床現場で検察側が主張するような措置を取った例はない」として反論、「手術は適切だった」とした。

公判で、辯護側には周産期医療の権威とされる池ノ上克(つよむ)・宮崎大医学部長と、岡村州博(くにひろ)・東北大教授が証人に呼ばれ、二人は「被告の処置に間違いはない」と述べた。

判決

判決公判は2008(平成20)年8月20日、福島地裁で行なわれ、鈴木信行裁判長は医師の「無罪」(求刑1年、罰金10万円)を言い渡した。

鈴木裁判長は、死因が剥離による失血死と判断した。

まず、癒着の程度や位置関係をめぐる検察側証人である田中憲一教授の鑑定結果について、氏は腫瘍が専門で癒着胎盤の治療経験に乏しく、医学書などの文献に頼った内容であり、これを標準的な医療措置と理解することは相当でない、と一蹴。

他方、辯護側の医師は産科の臨床経験が豊富で、専門知識の確かさは経歴のみならず証言内容からも汲み取れるため、医療現場の実際をそのまま表現する、標準的な医療措置に関する証言と認められる、とした。

つまり、検察側の主張の信用性は全てが否定された。検察は完敗したのである。

分かりやすく言えば、このような事態では他に方法など無く、その場でのベストの処置を尽くした結果だったのだから無罪である、と判断された。

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