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お湯を掛けるだけなど、簡単な調理法で食べることができるラーメンのこと。インスタント食品の一つ。
市販のスタイルに応じて、次のように分類される。
袋ラーメンは、別途容器(器)が必要なラーメンである。カップラーメンは、その容器が最初から付いている代わり、容器分割高な上にゴミの量が多い。
袋ラーメンは現在市販されているものはほぼ全て、鍋で茹でる調理を要求している。今も残る、丼に入れてお湯を注ぐだけの袋ラーメンは、日清のチキンラーメンくらいしか残っていない。
インスタント麺としては、松田産業有限会社(現・株式会社おやつカンパニー)が発明した「味付中華めん」が起源となる。油で揚げた麺で、そのまま食べられるお菓子であった。現在の「ベビースターラーメン」の由来でもある。これを含めれば、日本初のインスタントラーメンは「味付中華めん」となる。但し、これはいわゆるラーメンでは無く、これをお湯で戻しても全く美味しくない。
より本格的なラーメンとして世界初のインスタントラーメンは、日清食品の創業者安藤百福が発明し1958(昭和33)年8月25日に発売されたチキンラーメンである。この当時はまだ粉末スープが発明されていなかったため、味付中華めんもチキンラーメンも、麺自体にスープが練り込まれている。
初めて粉末スープを発明したのは、これに続く明星食品である。チキンラーメンの1958(昭和33)年より即席麺の製造を開始し、1962(昭和37)年、澱粉でスープを粉末にし、現在のように袋詰めした別添スープを添付した「明星ラーメン」を発売した。これは後の「明星チャルメラ」の源流となった。これに端を為し、味付けの幅を広げたのもまた明星食品で、塩味、味噌味、カレー味など幅広い製品展開をした。日清も対抗し「出前一丁」では胡麻辣油を添付した。
ここから、日本の油揚げ麺の起源はおやつカンパニー、いわゆるインスタントラーメンの起源は日清、それを深化させ製品を改良したのが明星食品ということになる。商業的に成功させたという意味では、日清のチキンラーメンが世界初といっても過言ではない。
麺を油で揚げるという発想は古く支那にもあり、それは伊府麺(イーフー麺)とされる。
茹でた太い小麦粉麺を油で揚げて作る保存食で、食べる時に茹でるのは同様であるが、麺に鹹水は含まれておらず、つまり細いうどんである。台湾では「意麺」と呼ばれ、台南では今も名物料理である。
但し、伊府麺とチキンラーメンの繋がりについては不明である。
当初は油揚げ麺だったが、やがて麺をフリーズドライしたものが登場。またスープも同様にフリーズドライ化され、フリーズドライの具も添付されるなど進化した。
やがて具の高級感や、より生ラーメンに近い食感(生麺感覚)などでも競われるようになり、フリーズドライからレトルトまで、幅広い製品展開が進んだ。
さらに日本国内だけでなく世界に普及することになるが、その際の問題は「器」だった。日本には茶碗や丼が普通にあるが海外にはなく、チキンラーメンを割ってコップに入れてお湯を注ぎ食べるという方法が取られていたという。それを見た安藤百福はカップ麺の発想を得、試行錯誤の末1971(昭和46)年に世界初のカップラーメン「日清カップヌードル」を発売した。
インスタントラーメンの製造技術から、様々な派生が産み出された。
この他、こんにゃくを使ってラーメン風に味付けした「ラーメン缶」なども開発されている。但しこれをラーメンと呼ぶべきかどうかはまた議論の対象であろう。
日本で生まれ育ったインスタントラーメン文化は、各社が海外展開することによって世界に広まった。
各国ごとに味覚と嗜好が異なるので、現地メーカーに模倣された製品の方がシェアが高い状況が各国で見られ、結局のところ、いずれも苦戦しているようである。元祖だからといって強いとも限らない。
日本メーカー製品でも国ごとに人気や企業のシェアはかなり差がある。有名どころでは、香港では日清食品の袋麺「出前一丁」がダントツ一位の人気を誇ることで知られており、味も日本では考えられないほどバラエティに富んだ製品展開がなされている。
日本なら出前一丁以外のブランドで製品展開されそうなものを、香港では全て出前一丁ブランドにしているとも言える。
時期によって変化するであろうが、ある資料では「出前一丁 極辛猪骨湯麺」という、麺にも唐辛子が練り込まれた激辛麺が第一位の人気であったという(この麺は、日本なら「とんがらし麺」などに相当する)。ちなみに2位は醤油味の「出前一丁 東京紫菜醤油湯麺」で、3位は日本と同じ、オリジナルの出前一丁だという。
このように、日本オリジナルのフレーバーも一定の支持は集めるが、それ以上に現地人好みのフレーバーの方が人気が得られるという傾向が世界共通で見られる。これはある意味当然でもあろう。
南朝鮮(南鮮)は、世界ラーメン協会によれば2015(平成27)年では国民1人あたり約70食/年と世界一となる、世界で最もインスタントラーメン消費量の多い国となっている。
今では多種多様な商品が流通する南鮮に最初にインスタントラーメンの技術を伝えたのは明星食品であり、しかも無償で技術やレシピを提供した。技術を伝えた相手は、南鮮の三養食品という会社であった。なお、日本のサンヨー食品(サッポロ一番で有名)とは何の関係もない。
時は1963(昭和38)年、当時の南朝鮮は朝鮮戦争後の景気衰退期にあり、世界最貧国でもあり国民は飢餓に苦しんでいた。三養食品の創業者 全仲潤は、1959(昭和34)年頃に日本で食べたインスタントラーメンを思い出し、食糧問題解決策としてインスタントラーメンを安価に製造販売することを思いついた。
そこで日本の各社に商談に行くも、どこも当然ながら企業のトップシークレットを簡単に教えるわけもなく、難しい条件や多額の金額を要求した。そんな中、明星食品の奥井清澄社長に出会うと、奥井は無償で技術とレシピの提供に応じたという。
その後全仲潤は、食糧問題解決のためと政府を説得して5万ドルを借りることに成功。日本の明星食品は、機械は僅か1千万円弱(約2万6800ドル)で譲り渡し、技術やロイヤルティは無償で提供した。そして1963(昭和38)年9月15日、遂に南鮮初のインスタントラーメン「三養라면」(三養ラーメン)が発売された。
「라면」(ラミョン)という名前も、この時初めて一般に登場したと考えられ、以降は朝鮮語として定着している。ラミョンのラはラーメンのラの音であり深い意味はないが、면=ミョンは漢字で麺を意味する語であり、要するにラーメンという名を忠実に翻訳したと言える。ラーメンという食品に一定の敬意を払ったためであろうと思われる。
しかし発売当時は明星食品の味そのまま模倣したため、日本とは味覚や嗜好が異なる南鮮では不評であった。そこで独自のスープ開発が始まり、1966(昭和41)年に遂に三養ラーメンの人気が沸騰することとなった。
日本ですら年間40食あまりとされるなか、上述のように年間約70食という世界一のインスタントラーメン愛食国となり、いつしかインスタントラーメンは「国民食」となっていた。
南鮮でのパイオニアである三養食品はその後も1980年代中盤(昭和50年代頃まで)は南鮮での業界トップに君臨していたが、1986(昭和61)年に発売され日本でも知られる農心の「辛ラーメン」が大ヒットしたため押されるようになる。それでも定番メーカーとして愛され、2016(平成28)年現在も業界3位に位置している。
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