大日本帝国と中華民国との間の武力紛争の一つ。結果、日本・関東軍が満州全域を制圧し、満州国の独立を勝ち取った。
1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件に始まり、1933(昭和8)年5月31日の「塘沽協定」(塘沽=タングー)が締結されて終了した。
塘沽協定により、蒋介石の国民党政府も満州国を認め、これをもって「満州事変」と呼ばれる紛争は正式に終了し、日本は平和を勝ち取った。以降、4年以上後の支那事変勃発まで、日本には戦争の火の粉が降りかからずに済んだ。
現在では、日本を悪に仕立てるため、反日勢力は満州事変と支那事変をまとめて「十五年戦争」、支那の共産党は「14年の抗日戦争」などと呼んだりもするが、戦争をしていない年まで算入されており、明らかに間違った考えである。
満州事変より遡ること約3年前の1928(昭和3)年6月4日、奉天駅の南で、満洲軍閥の総領だった張作霖の乗る列車が爆破され、張作霖は死亡した。
更に、この爆破は日本の謀略とする噂を流され、大日本帝国はこの対応に遅れた結果、満州は中華民国の手に落ちてしまった。
しかしこの事件、実際にはスターリンの命令に従ってソ連の諜報員、ナウム・エイチンゴン(Наум Исаакович Эйтингон)が計画し、日本の仕業に見せかけたものだった。
満州情勢の悪化がやがて支那事変そして大東亜戦争へと広がっていくことになるが、現在ではこのように、コミンテルンの謀略に嵌められていたことが分かっている。
それから約3年後の1931(昭和6)年9月18日夜、奉天郊外の柳条湖、すなわち張作霖爆殺事件の事件現場至近で満州鉄道の線路が爆破されるという事件が発生した。
これは日本の関東軍による自作自演であったが、日本は中華民国・張学良の東北軍による破壊工作であると発表し、すぐさま軍事行動に移った。
関東軍の快進撃により、わずか5ヶ月という短期間で満州を制圧、そして満州国が建国された。
なお、爆破自体は小規模であり、線路自体が通行不能になるほどの破壊はしていない。事件の立案は板垣征四郎陸軍大佐と石原莞爾陸軍中佐で、指導者は花谷正陸軍少佐と今田新太郎陸軍大尉(階級はいずれも事件当時)だった。
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