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地球は自転しながら、静止している太陽のまわりを公転している、とする学説。
科学的手法によって地動説を導き出したのは、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイである。
ガリレオは、ガリレオ式望遠鏡を発明し、望遠鏡を天体観測に初めて用いた。
これにより木星の衛星や大赤斑の発見、月面のクレーターの発見など、天文学に大きな功績を残している。
ガリレオはコペルニクスの地動説を支持し、その業績から今日では天文学の父とも称されるが、地動説を発表した当時は「地球は宇宙の中心」を教義で主張するキリスト教により、厳しく弾圧された。
1616(元和2)年にバチカンのローマ教皇庁より地動説禁止令が出され、ガリレオは宗教裁判によって地動説放棄を命ぜられた。この時「それでも地球は動いている」という名言を残したとされている。彼の没後、彼の考えはヨハネス・ケプラーへと引き継がれた。
ローマ教皇庁などからの地動説への弾圧が強まる中、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは地動説を支持、天文観測を続けた。
母親が魔女裁判に掛けられるなどの迫害を受けるような中でケプラーは、ケプラーの法則と呼ばれる三つの重要な法則を発表した。これは、惑星の軌道は楕円であり、面積速度は一定であり、公転周期と軌道の長半径は比例関係にある、とするものである。
元々コペルニクスが発表していた地動説は、惑星は円軌道であり、このため周転円を含む不完全なものであった。ケプラーは観測記録などから、ケプラーの第1法則として惑星は楕円軌道を取ることを見出したのである。
そして1627(寛永4)年、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の勅命により、ケプラーは天文表「ルドルフ表」(ラテン語原題Tabulae Rudolphinae Astronomicae)を作成した。これは惑星の推測位置などを記した星表で占星術で使われるものだが、地動説に基づいて作られたこの星表は従来とは比較にならないほど高精度であり、これ以降、地動説は急速に普及していくことになる。
そんなケプラーも、またガリレオも、「空を飛ぶ鳥が地球の動きに取り残されない理由」を説明することができなかった。この問題が解決するのは彼らの没後で、ニュートンの登場を待たなければならなかった。
ケプラーが没してから約12年後、ガリレオが没してから約1年後、ニュートンがこの世に生を受けた。
イギリスの物理学者ニュートンは、現在では古典力学とも呼ばれる力学(ニュートン力学)を提唱し、現在の科学の基礎を作り上げた。
三つの運動の法則(運動の三法則)として、慣性の法則、ニュートンの運動方程式(質量・加速度の法則)、作用・反作用の法則、があり、ニュートン力学では、物体はこの法則に従って運動する。
慣性の法則によって、慣性は定式化された。さらにニュートンは、ニュートンの運動方程式にケプラーの第3法則を導入することで、万有引力の法則を導き出した。
こうして、天動説の従円と周転円は科学的には全く説明ができないが、地動説は矛盾無く説明できる上にあらゆる疑問に答えられるようになった。ただしこの時点ではまだ理論のみで、地動説の証拠は見つかっていなかった。
観測者が移動している場合、真上から差し込む光であっても、斜めから差すように観測される。これが光行差である。
地球から天体を観測したとき、観測者が「移動」する最大の原因は、地球の公転である。公転によって起こる光行差を年周光行差といい、1728(享保13)年にイギリスの天文学者ジェームズ・ブラッドリーにより発見された。そしてこれが、地球が動くとする地動説の、最初の直接証拠となったのである。
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