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?〜1582(天正10)年。旧姓 三宅。光春、弥平次。明智光秀の女婿。一説には、光秀の従兄弟。
秀満の妻は最初荒木村重の子村安に嫁いでいたが、村重の謀反を機に離縁されていた。結婚後、1580(天正8)年から1581(天正9)年の間に明智と改姓。血縁になったとは言え、主家の名字を名乗るのを許されたのだから秀満はかなりの信頼を得ていたことが分かる。実際、明智家中で斉藤利三と並ぶ筆頭家老であり、織田信長への謀反も前もって打ち明けられていた。
光秀の丹波攻略に従い、1581(天正9)年頃福知山城代となる。本能寺の変では先鋒を務め、その後は安土城を守っている。明智軍が山崎の合戦で豊臣秀吉に敗北、光秀も戦死の報を聞くと、近江坂本へ撤退。この時、堀秀政の軍と遭遇し、打出浜から馬を湖水に乗り入れ、渡り切ったという逸話が「左馬助湖水渡り」として残っている。実際、大津市の湖岸にも「左馬助湖水渡の碑」が建っているが、実際には重い武具甲冑を着け、馬に乗って長い距離を泳ぐことは不可能なので、湖中道か小舟で渡ったものと言われている。
堀秀政らに坂本城が包囲されると、6月15日、名刀や茶器といった文化財を秀政に引き渡したのち、城に火を放ち、妻と光秀の妻子を刺して自刃。
安土城は謎の炎上を遂げているが、これは秀満が退去の際に火を放ったとする説もある。しかし、このような秀満の人柄を考えるとその様な行為に及ぶとは考えにくく、信長の子の織田信雄が放ったとする説の方が有力である。
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