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滋賀県近江八幡市安土町(旧・蒲生郡安土町)にあった城。織田信長居城。
1579(天正7)年に信長が築城。五層七重の天守を中心とした豪華なもので、これ以降に築城された城は少なからず安土城の影響を受けている。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が起こると、留守居役の蒲生賢秀が、信長の側近たちを避難させたあと、自身も退城し、ものけのからとなった。一方、光秀は2日のうちに安土城に入城しようとしたが、瀬田橋を守っている瀬田城主山岡景隆を味方につけることに失敗。景隆は橋を切って落とし、甲賀郡へ逃げてしまった。瀬田橋は安土城へ行くに避けれない橋であり、この橋の修復のために光秀は3日間も安土城に入城できなかった。この時、光秀は財宝を部下に分与しているが、城自体には手をつけていない。それからわずか8日後の天正10年6月13日(1582年7月2日)、山崎の合戦で光秀が討死すると、守将・明智秀満は坂本城へと退城。この13日か14日の間に無人となった安土城は炎上してしまうのである。
火を放った犯人の一人にはその秀満が挙げられているが、犯人を秀満とする資料はいずれも豊臣側が残した記録であり、信頼性が無い。加えて秀満は自刃前に坂本城で名刀や茶器といった文化財を城を包囲している秀政に引き渡している。その様な人が火を放つとは考えにくい。
もう一人の容疑者は信長の次男・織田信雄である。宣教師ルイス・フロイスの書簡によれば、信雄が城の最も高い部分の主要な部屋に火をつけさせたとなっているのである。これは近年進んでいる発掘調査ではっきりと炎上が確認できるのは、天守や黒金門付近だけであり、城下に天守よりも近い総見寺が燃えていないということもそれを裏付けている。
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