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1540(天文9)年〜1582(天正10)年。次右衛門、治右衛門。明智光久の子。明智光秀とは従兄弟。
1552(天文21)年、斉藤義龍の攻撃により、明智城が陥落すると父・光久とともに行方不明となるが、光秀が織田家臣となると父と共にそのもとに仕える。
1575(天正3)年、丹波過部城攻撃において、信長から戦功を認められ感状を下賜されている。
1582(天正10)年、本能寺の変では二条御所を襲撃、銃弾を受けて負傷。知恩院で治療を受けていたが、山崎の合戦に敗北し、光秀が死んだと聞いて自刃した。
光忠の妻は二人居る。最初の妻は光秀の娘であったが若くして亡くなってしまう。そのため、再び光秀の娘をめとっている。明智秀満は同じく光秀の娘をめとったことによって明智姓を名乗ったことになっているが、光忠と同様光秀と従兄弟だったとする説もある。これを逆に考えれば、光忠も光秀の縁者ではなく、光秀の娘をめとったことによって明智姓を名乗ったのかもしれない。
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