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第百二十四代天皇陛下。
関連する時代背景等も含む。
陛下は腸の病を患い、1987(昭和62)年9月22日には歴代天皇としては初めての開腹外科手術を受けられた。しかし翌年1988(昭和63)年9月19日に吐血、以後闘病されたが上部消化管(食道、胃、十二指腸)からの出血が断続的に発生し、胆道系炎症、閉塞性黄疸を発症、尿毒症を併発された。
1989(昭和64)年1月7日4時過ぎに危篤となり、十二指腸乳頭周囲の腺がん(腫瘍)により1989(昭和64)年1月7日06:33(6日@939)、吹上御所にて身をお隠しとなられた。
この時、パリで開催中の化学兵器禁止国際会議の席上、参加149ヶ国の全員により黙祷が捧げられた。
崩御あらせられた天皇は、在位中の元号より昭和天皇と追号された。
大喪の礼(天皇の葬儀)は翌月、1989(平成元)年2月24日に行なわれた。この日は1989(平成元)年2月17日に交付・施行された「昭和天皇の大喪の礼の行われる日を休日とする法律」(平成元年法律第4号)によって休日となった。
大喪の礼には海外から164ヶ国、EC及び27の国際機関の元首、弔問使節が参列した。
吹上御所(1961(昭和36)年完成、後の吹上大宮御所)
父神は大正天皇(嘉仁天皇)、母神は貞明皇后(節子皇后)。
お人柄を語る逸話は幾つがあるが、その一つに薩摩の話がある。
1931(昭和6)年、鹿児島より船で帰京される時、天皇は真っ暗な海に向かい、ひとりで挙手の礼をしていた。
お付きの者は不思議に思ったが、海を見ると遠い薩摩半島の海岸で、陛下をお見送りしていたと思われる住民による篝火の列があった。天皇はそれに向かって答礼をされていたのである。
昭和天皇には7柱もの皇子がおられる。この当時は臣民にあっても子沢山が多かったとはいえ、7柱は注目すべき数である。
戦後、殆どの皇族は臣籍降下させられたことから、少なくとも昭和天皇に男子が1柱なくては皇統断絶の危機となる。しかし最初の4柱は女子だった。産まれても産まれても女子だったため、昭和天皇や香淳皇后はさぞかし不安を感じたことと思われる。
一時は臣籍降下した旧宮家からの養子も考えられたとされる。諦めずに7柱も頑張ったのはひとえに、皇室を失くしてはならないという重い責任を果たそうとする結果だったのだろう。
昭和天皇の詠まれたお歌は1万首にもなるとされる。そのうちの幾つかが臣民にも伝わっている。
1928(昭和3)年、即位して最初の歌会始の御製。
山山の色はあらたにみゆれども わがまつりごといかにかあるらむ
国連脱退という波乱の年となった1933(昭和8)年の歌会始の御製。
あめつちの 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を
(大意)朕は、朝凪の海のように静かで波の立たない世になるように、天地(あめつち)の神に祈っています。
そんな昭和天皇が権力を行使したこと(ご聖断)が二回だけある。
一つは1936(昭和11)年の二・二六事件の時である。
将校らを反乱軍と名指しして、事件を収束させた。
もう一つは1945(昭和20)年の大東亜戦争停戦の際に内閣にポツダム宣言を受諾させたことである。
御前会議にて陛下は「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」というお言葉が発せられた。
ポツダム宣言を受諾できたのは当時の内閣が実質的に機能停止していたからである。二・二六事件の時もそうだが、天皇陛下自体に権限が存在したわけではない。
しかも、いずれも国民のためにやってくれたことである。
天皇は、不本意であっても内閣や軍部の決定は認めるという、国の象徴であり立憲君主という立場を崩さなかった。
昭和天皇は戦争反対派だったものの、内閣の大東亜戦争開戦決定を拒否する権利を持っていなかったために、内閣や軍部の暴走を止められなかった。
昭和天皇の下に結集して「大東亜を解放する戦争」を支持したのは、暴走した内閣や、それを肯定し世論を煽った朝日新聞や、それに乗った当時の国民である。
実際に、それは正しいことではあったが、今も昔も御意などどこにも反映されてはいない。
大東亜戦争の敗戦はラジオ放送(玉音放送)により天皇の声によって告げられた。これは録音の放送だったが、それでも天皇の声を広く国民に放送したのはこれが初めてのことである。「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」のフレーズが有名である。
民を思う心は、昭和天皇が詠んだ和歌(御製)にも表われている。
爆撃にたふれゆく民のうへを思ひ戦止めけり身はいかならむとも
(大意)爆撃で亡くなった民を身上を思い、我が身がどうなろううとも戦争を止めた。
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
(大意)死んでいった民を思って、我が身がどうなろうとも戦争を止めた。
国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
(大意)国民を守るために、どんな困難な道を進もうとも戦争を止めた。
自分の身はどうなっても、倒れてゆく民のため、戦いを止めたい、と詠んでいる。
しかし天皇は政治に口を出す権限が無かったことから、自分の無力を嘆く句も詠んでいる。
戦をとどめえざりしくちをしさななそぢになる今もなほおもふ
サンフランシスコ講和条約発効により、独立が回復されたことを喜ばれた天皇は、次のような歌を詠んだ。
風さゆる み冬は過ぎて 待ちに待ちし 八重桜咲く 春となりけり
開戦は国民が勝手にやったことで、天皇は何も手を出していないし、出せない。
戦争を止めたい天皇の御意を無視し、暴走したのは軍部である。昭和天皇は、敗戦間際、戦争を継続したい軍に暗殺されそうにもなった。また、法律的にも戦争責任は内閣にあった。
にも拘わらず、昭和天皇は停戦後、(本来はあるはずのない)責任を一手に引き受けた。
天皇が初めて会見に来た時、マッカーサーは「さっそく命乞いに来たか」と思った。しかし、陛下の口から出た言葉は、彼の想像を遥かに超えたものだった。マッカーサー回想記によると、次の通り。
天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行なった全ての決定と行動に対する、全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためにお訪ねした。」と述べた。
つまり、自分の命の処分はお任せするので、日本国民を虐殺しないで欲しいとマッカーサーの前に出頭したわけである。神々しい程のお人好し(お神好し?)であった。
更にマッカーサー回想記には、「私は、大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。」と記されている。
GHQによる食糧支援が始まってから、昭和天皇は皇室の財産目録を用意し、代価として支払おうとされた。マッカーサーはこれにも痛く感激したが、しかし受け取りを辞退したという。
敗戦後、国民の最大の関心事は、当然にして天皇陛下である。
かくして、国民からは、天皇を処刑しないで欲しいという血判付きの封書がGHQに殺到した。
本当は日本を占領したかったアメリカであったが、日本人の反感を恐れ天皇を処罰の対象から外した。
昭和天皇は、自分の命で国民を守ろうとしたが、戦後は自分の不甲斐なさを悔いていたとされる。このような昭和天皇の人柄(神柄?)は日本の誇りだった。
戦後、昭和天皇は日本各地を行幸されたが、どこへ出かけても予想外の大歓迎を受けた。それだけ天皇と日本国民との絆は固かったのである。
戦後の行幸により日本の復興が進んだと言われている。もし戦後退位していたら、戦後復興の効果も乏しかったとさえ言われる。
退位して那須の御用邸で隠居暮らしでもしていたほうが、昭和天皇にとっても、どれほど楽だったか知れない。しかし昭和天皇は国民が一刻も早く元気を取り戻して明るい未来へと向かえるようにとお考えになっておられたのである。
最終的に本州・四国・九州、のちに北海道(1954(昭和29)年)を行幸した。1987(昭和62)年についに沖縄行幸の予定が組まれたが、この年に腸を患って手術となったため行幸は中止、ついに沖縄へ行くことは叶わなかった。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを
沖縄行幸は「つとめ」であると御製で詠われた。
病床でご自分の死期を悟られ、「もうだめか。沖縄には行けぬか。」と言われたそうである。
そして沖縄行幸を切望なされながら、昭和天皇の戦後は遂に終わることなく、身を隠されてしまったのである。
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