長篠の戦い

読み:ながしののたたかい
品詞:固有名詞

織田信長が武田勝頼率いる武田騎馬軍団を三段に組んだ鉄砲隊の攻撃によって壊滅させ、新兵器鉄砲の威力及び信長の威勢(それと同時に武田の衰勢)を世に知らしめたとされる戦い。

1575(天正3)年、偉大なる父、武田晴信(信玄)ですら落とせなかった高天神城を落としたことで、勢いに乗った武田勝頼は続いて1573(天正元)年に武田方から徳川方になっていた長篠城の攻略を企図した。武田軍が長篠城攻めを開始したのは5月11日で、いち早くその動きをつかんだ徳川家康は織田信長に援軍を要請した。ここで通史では信長は武田軍を一挙に屠るために喜んで援軍に応じたかのようになっているが、実際のところ信長は石山本願寺をはじめとする畿内の戦いに忙しく、それどころではなかった。それでも信長が援軍を出したのは、後方を武田に脅かされてはおちおちと畿内での戦いに集中できないことと、自分達(徳川)は姉川の戦いの時に織田に援軍を差し向けたにも関わらず、織田は高天神城の戦いのときに援軍を出してくれなかったという不満が徳川内で高まっており、今回も援軍を出さなければ、一挙に亀裂が広がる可能性があったからである。信長は大軍を差し向けると同時に、自身は岡崎城に急行して家康と合流し、5月15日、対武田戦の軍評定を行なった。

5月18日、織田軍三万、徳川軍八千が長篠に到着した。一方武田軍は『甲陽軍鑑』での表記に従うと一万五千となる。この数字が実話だとすると両軍合わせて五万を超えることになってしまうが、戦場となった長篠城西方の設楽ヶ原(しだらがはら)にはこれだけの軍勢が動き回れるだけの空間はなく、現在では織田・徳川側が二万弱、武田側が六千程度であったと推測される。

長篠に到着した織田・徳川軍は信長が極楽寺に、家康は高松山に本陣を置き、同日夜から連吾(子)川(れんごがわ)に沿って柵や空堀などを構築させはじめた。一方、織田・徳川軍の到着を知った武田軍も19日に軍評定を開き、19日夜から20日にかけて長篠城攻めには一部だけを残し、少数を後方警戒のため鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦に配すると残りの主兵力を連吾川を挟んで織田・徳川軍と対峙する清井田(きよいだ)付近に進出させた。

信長は家康の部将である酒井忠次に金森長近隷下の鉄砲隊五百を含む四千でもって武田の鳶ヶ巣山砦への攻撃を命ずる。この攻撃によって武田軍の背後を脅かすと共に自軍の背後を取られないためのものであった。翌21日早朝、両軍の布陣が完了し、戦いの舞台は調った。

21日午前六時、武田軍左翼の山県昌景率いる一隊が自軍の正面に布陣する徳川軍右翼の大久保忠世隊に対して攻撃を開始したのが引き金となって戦いが始まる。通説では織田・徳川軍が構築した馬防柵に苦慮する武田軍に対して織田軍の鉄砲隊三千が三段になり、切れ目無く一斉射撃することで武田軍を壊滅させたとなっているが、これは全くの出鱈目で、そもそもまず信長隷下の鉄砲隊は直属軍ではなく、配下の諸将からかき集めた寄せ集めの部隊で、しかも鳶ヶ巣山砦攻めに五百も派遣してしまったので、主戦場には千挺程度しか無かった。そしてその鉄砲隊が武田軍を壊滅に追い込むためには戦線の端から端まで鉄砲隊は布陣せねばならないが、織田軍の担当した戦線は約1kmであり、そこに三段に配置するということは配置間隔は3m以上にもなってしまいスカスカである。更に三重に配置させたとの説もあるがそんなことしたら配置間隔は10mにも及ぶ一方、二列目、三列目の隊は一列目の隊と柵に邪魔されて射撃そのものがろくにできない。また三段射撃のためにはあうんの呼吸が必要であるが寄せ集めの鉄砲隊には無論そんなことは不可能である。次に武田軍は全軍がまとめて突撃を繰り返したわけではなく、何隊かごとが戦線の各所でばらばらに攻撃しており、鉄砲隊が一斉射撃したとすれば目の前に敵兵が居ない時に射撃するという無駄弾を打つことも多かったはずだが、鉄砲隊を寄せ集めなければならなかった織田軍に火薬弾薬類の備蓄がそんなにも豊富だったはずが無い。ただ三人一組になって代わり番こに打つとか、一人が射手に他の者が弾込めに分業することなら出来たはずだが、そういう記録は無いし、これを行なったとしてもそれは信長の発案ではなく、雑賀衆ははるか以前から行なっていることであり、畿内で彼らと戦っていた信長がそれを知らないはずが無い。そもそも武田軍が騎馬に頼り、鉄砲をロクに知らなかったというのも全くの出鱈目で、武田家では領地が海に面していなかったにも関わらず日本に火縄銃がもたらされた頃から積極的に取り入れ、長篠の戦いにおいても長篠城攻めで武田軍が相当量の鉄砲隊を投入し、結果長篠城の戸板は撃ち抜かれて障子のようになっていたと家康自身が語っている事でも分かる。

では何故武田軍は敗北したのかと言えば、堀や空堀まで備えた「さながら城攻め」(『甲陽軍鑑』)を守備側の1/3の兵力で行なったことである。陣地攻撃には相手の三倍の兵力を用意すべしと言うのは戦いの鉄則だが、逆に1/3の兵力で攻めては負けるのは当然である。馬場信房を初めとする部将が避戦を叫んだのもこのためであったが、先の高天神城の戦いでの勝利に酔いしげっていた勝頼にとってはかえってその劣勢の中での勝利こそ勇名を挙げる好機と写ってしまったのである。

なお、この戦いで武田軍が失った兵力は千程度であり、部将も鉄砲により戦死した事が明確なのは山県昌景、望月信雅、土屋昌次、高坂昌澄であるが、山県、望月の両名は敵陣突破に失敗し引き上げ中に撃たれたもの、土屋昌次ははなから信玄に殉じるつもりで戦いに臨んでおり、一種の自殺、高坂昌澄は長篠城攻撃において城兵に狙撃されたものであり、言われているような死に方をした者は皆無である。戦いが終わったのは午後2時(一説に午前10時)であるが、戦いが始まってから8時間も経過しており、通説のように鉄砲のつるべ打ちで戦いの趨勢が決したのならば、こんなにも時間はかからなかったはずである。

この戦いで、上に挙げた鉄砲によって戦死した者以外にも真田信綱、昌輝、馬場信房、内藤昌豊などこの時生き残っていた武田二十四将の主だった人間を失ってしまっている。信玄が勝頼を後継者にするときに強引な手法をとったことにより、家臣の中に一致団結していた家臣団瓦解の種が芽生えていた。これが、実際に勝頼が当主となると、勝頼は偉大なる父並みの武勇を挙げようと焦り、家臣がその戦い方の危なっかしさをとがめるのを無視したため、大きくなっていた(長篠の戦いでも、上述のように織田・家康軍の陣地を見て、筆頭家老の馬場信房が避戦論を唱えたのを勝頼は無視した)。鉄砲による狙撃を考慮に入れても兵士の損失に対する将の損失が大きいのは敗戦の中、信玄の古き良き時代を懐かしく思いながら、生への執着を捨てたからだと思われる。戦後、敗戦からと今までその種を押さえつけていた重臣が高坂昌信を除いて戦死してしまい、残った昌信もその負担から来るストレスで3年後に没すると、もはや重石は無くなり、裏切り者が続出することになり、これが武田家滅亡を決定付けたのである。従って武田家が長篠の戦いで負けたのも滅亡したのも鉄砲のためではない。

なお、このような誤った話が広まってしまったのは、江戸期の俗書である小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記(しんちょうき)』が言い出した話に遠山信春の『織田軍記(総見記)』が追従し、町民の間にこの説が広まり、更に近代における歴史観の基本となった参謀本部編の『日本戦史』の中の『長篠役』でこの説を取り上げてしまったからである。

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