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1547(天文16)年〜1611(慶長16)年。安房守。真田幸隆の三男で、真田信之(信幸)、真田信繁(幸村)の父。武田二十四将の一人。戒名 長谷寺殿一翁千雪大居士。
幼少の頃から武田晴信(信玄)の小姓となり、甲斐の名門武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を名乗る。その頃から既に彼の卓越した能力は発揮されており、晴信に「武藤喜兵衛と曾根内匠は、我が両眼のごとくなり」と言わしめた。
ところが、父幸隆が1574(天正2)年に没したのに続き、長兄・真田信綱、次兄・真田昌輝が翌1575(天正3)年の長篠の戦いで戦死してしまったため、急遽真田姓に復帰し、家督を継ぐこととなる。
両兄が戦死した長篠の戦い以降、主家・武田家は没落し、滅亡してしまうと、一気に強国の間で難しい舵取りを余儀なくされ、主家を織田、北条、徳川、上杉と巡るましくかえる。
しかし、強国の言いなりになるのではなく、押し通すことは押し通した。そのため、徳川との間で一戦を交えることになる。この第一次上田合戦(神川合戦)では、その鬼謀をいかんなく発揮し、徳川軍を撃退した。
関ケ原の合戦では、昌幸がお家を後世に残すために二人の息子を両軍に分けたということになっているが、それは誤りで、西軍につこうとするのを長男・信之が東軍入りを強く主張したために結果的にそうなったというのが正しい。この戦いで昌幸は再び上田で徳川軍を迎え撃つことになり(第二次上田合戦)、徳川軍主力の足止めという目的は十分に果たしたものの、関ケ原の主戦場では西軍が敗北してしまったため、その功績が却って仇となり一挙に苦境に立たされる。ここで本来ならば死罪は免れないところであったが、東軍についていた信之が自身の身にかえてでも父弟の命の助命を懇願したため、高野山麓の九度山に配流される。彼はいつか釈免の日が訪れると信じていたが、その日が来ることなく同地で没する。
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