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かつて、東京近郊をサービス地域に、xDSLサービスを行なうベンチャーとして登場したネットワークサービス企業。
以下は、当時の情報
東京めたりっく通信が使用したADSLのモデムチップは、ベル研究所と、AT&T社の日本法人だったAT&Tパラダイン社によって開発されたものである。
これは、小林博昭が当時AT&Tパラダイン社の代表で、AT&Tでそのメンバーだったことによる。
東京めたりっく通信設立後、ソフトバンクの孫正義は東京めたりっく通信を欲しがっていた。
1/3の株式を要求し、小林博昭代表はそれに賛成をしていたが、他のメンバーの賛成を得ることができずお流れとなった。
野村証券が当時のソフトバンクの幹事証券であり、東京めたりっく通信の監事会社でもあった。
当時、東京めたりっく通信の毎月の収入は3億円を越えてはいたが、上場して資金調達をしないと早晩、資金がショートする状況でもあった。
そこで小林博昭代表は、野村に今が上場のチャンスであるとして上場を持ちかけた。しかし野村証券は、「金は幾らでも野村銀行(当時の大和銀行)から調達できる。これから1年くらい経てばもっと株の価値が出るから、1年間様子見よう」と断った。しかし、実際には1円の金も大和銀行からは出てこなかった。
他の投資会社も、NTTと対峙するような仕事は難しいだろうとの判断で投資には消極的だった。小林代表の必ず未来はあるとの説得を理解できず、最終的に彼らの投資は無駄な投資になってしまった。
東京めたりっく通信は遂に資金がショートして金がなくなった。
資金が尽きてしまったことを、東条巌会長が新聞記者に一言しゃべってしまった。朝日新聞の原淳二郎記者はこれを特ダネとし、5段抜きで「東京めたりっく通信、金融危機」として翌日の朝刊に掲載した。これが東京めたりっく通信をレイムダックにしてしまった。
当時金を出そうとしていた投資者が一斉に手を引く結果となり、こうして経営は遂に破綻した。すなわち、この朝日新聞の記事が最終的に会社を潰したものと言える。しかしベンチャー企業など、いつでも金がないのである。
その後野村証券は、只の紙くずになった株式を、孫正義の所へと全部持って行ったのである。
この経緯は、野村の陰謀に掛かって、両者の幹事会社であった野村証券が東京めたりっく通信の株式をゼロにして(金がなくなり、倒産寸前に)、東京めたりっく通信を欲しがっていたソフトバンクに持って行った、ということが想定される。
東京めたりっく通信は、不祥事続発の野村にしてやられたのである。
ソフトバンクグループに吸収される直前の2001(平成13)年6月現在、ADSLサービス価格はダウンストリーム1.6Mbps、アップストリーム288kbps時で5500円/月(Familyプラン)。
他に固定IPアドレス&独自ドメインが利用できるAdvanced ADSLシリーズ(32,000円〜)プラン、SDSL(上下ともに768kbpsで38,000円〜)プランがあった。
東京めたりっく通信はATMをバックボーンにしていた。
NTT地域会社の光ファイバー網開放によって、毎月5000万円のATMのバックボーン費用は、数百万円にまで値下がりした。しかし、当時既に資金の尽きかけた東京めたりっく通信にとっては、大した意味の無いものであった。
最初に、バックボーンのシステムをATMにするかIPにするか議論があったが、このような重要な議論も小林代表以外のメンバーは理解ができず、多数決でATMが選ばれた。小林博昭は、これが大きな選択ミスだったと考えている。その理由は以下の通りである。
例えば、IPバックボーンにして、その後急成長を遂げた長野県協同電算(長野農協の100%子会社)は佐藤千明の選択により、現在もADSLのサービスを何万回線も続けることができている。
一方、ATM交換は僅か5Mbpsを局間で接続するだけでNTTの局舎毎に毎月50万円もの費用をNTTコミュニケーションズに支払わなければならなかった。しかも、ATM交換機を各局舎に置くなどの無駄な費用まで発生した。
この費用を出すためには、毎月1万人分の加入者の費用が必要だった。この収益構造は光ファイバー網の開放によって数十分の一にまで小さくなったものの、しかしこの時には時既に遅しの状態であった。
この開放劇も、ADSLは日本の電話回線には不向きであるためやらないと公言していたNTTがADSLサービスを提供するに際し、他社がNTTと同じ土俵で競争できるよう、郵政省がNTTに光ファイバー網の開放を迫って実現したものだった。
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