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潜水艦の、ディーゼル機関への空気吸入装置。
在来では、浮上時にディーゼルエンジンを動かして航行しながら、電池を充電し、潜水時に電池で航行するというスタイルをとっていた。
この装置開発後は、この装置を水面上に出すだけで潜水しながらディーゼルエンジンの運転ができるようになった。
艦内の空気汚染も無くなり、長時間潜航したまま行動することが出来る。
この装置は、第二次世界大戦においてドイツが開発した、とするのが通説である。
しかし、実際に同類のものを初めて開発したのはアメリカの潜水艦の先駆者サイモン・レイクであり、1894(明治27)年に進水した「アーゴノート」に取り付けている。
続いて日本も、1906(明治39)年に就役した初の国産艦である「第6号潜水艇」で、いきなり同様の装置を取り付けている。
続いて関心を持ったのはオランダ海軍のヴィッヒェルス少佐であった。彼は、熱帯の蘭印で行動する自国潜水艦でこの装置を使用し、暑さを回避しようとした。
従来の装置はいずれも艦の深度が増して送気管の先端が水没し、水が機関に侵入した場合の防護機構が皆無であった。現に日本の第6号潜水艇は1910(明治43)年4月15日に送気管の試験航行中に浸水事故が発生、佐久間艇長以下乗員16名全員が命を落としている。
しかし、ヴィッヒェルスは頂部に球状の浮子の弁を取り付けることによって、初めてその問題を解決した。それを受けたオランダ海軍では早速O19、O20に取り付けて試験を実施したところ、良好な結果が得られたので、改良型を建造中であったO21級に取り付けられた。
第二次世界大戦が勃発し、オランダがドイツの占領下に置かれると、同装置装備艦の内O25、O26、O27の3隻がドイツの手に落ちた。
ドイツは幾度か試験を行なったものの特に関心を持たず同装置を撤去してしまった。これは同装置を持つ蘭潜水艦を入手したイギリスでも同様であった。
しかし、1942(昭和17)年の後半にはレーダーの発達により夜間浮上中の潜水艦の被撃沈が急増するようになっていた。これを受けてドイツ海軍総司令官カール・デーニッツは1943(昭和18)年3月に対策会議を招集、この席上でヘルムート・ヴァルター博士が提案したのがシュノーケルであった。
ここで、オランダの方式をそのまま採用した訳ではない。オランダ式では空気は直接エンジンに取り込まれていたが、ドイツは艦内に空気を供給し、エンジンはその艦内の空気から吸排気した。これにより、潜水時にディーゼルエンジンが稼動可能ということだけでなく、艦内空気の換気も可能となった。
しかし、送気管頂部が水に浸かり、空気の供給が断たれているにも関わらずディーゼルエンジンの稼働を続けた場合、3分以上艦内空気の消費を許すと、乗員の中から呼吸困難や窒息の症状を表わす者が出て来る。このため、送気管の使用中には、バルブの開閉監視要員を必要とした(後にこのエンジンの停止は自動化された)。また、送気管は起倒式で、未使用時は前甲板の溝の中に格納していた。
大戦末期の新21型では伸縮式が装備されることとなったが、振動と防水対策が不十分であり、性能は伸縮式に劣っていた。
デーニッツが本装置の推進を決定した後は最優先事項に指定され、1943(昭和18)年7月にはU57、U58のⅡ型で試験型が装備された。
翌月の試験運用が成功に終わったため、1943(昭和18)年9月U235、U236のⅦ型2隻に改良型が取り付けられ、再び試験が行なわれた。これら4隻の試験の成功により、本装置は「シュノーケル」と名付けられ、制式化されることとなった。
前線用の艦を最優先に、次いでそれ以外の現役艦、建造中の艦の優先順で装備されることになり、8月以降大量発注がなされた。
1944(昭和19)年のはじめ頃からシュノーケル装備艦が前線に登場しだしたが、Uボートの乗組員からは懐疑的な目で見られていた。
最初の実戦用シュノーケルは1944(昭和19)年2月にU264に取り付けられたが、U264はその最初の作戦航海中に早くも失われたことがそれを促進させた。同艦は5月19日にアイルランド沖で英駆逐艦の爆雷攻撃により浮上後自沈したものであり、損失の原因はシュノーケルのためでは無かったが、ドイツ側はそれを知る由も無かった。
シュノーケル装置が乗組員に歓迎されなかった理由の一つには、海水を被り装置の弁が閉じた状態でディーゼルエンジンが稼働を続けると艦内空気を消耗することは既に述べたが、この時に一時的に真空状態が発生し、内耳痛、頭痛、嘔吐など乗組員に苦痛を与えたからである。
また、U1199などは北欧のベルゲン沖で作戦を行なったが、その50日間の期間のうち、31日間は潜航し続けていたのである。その一方で戦果は僅か1隻に過ぎなかった。これは当時のシュノーケル装置の置かれた立場をよく物語っている。すなわち、潜航可能時間が長くなったことによって生存率は高くなったが、同時に敵の発見率も落ちてしまい、撃沈率も下がってしまったのである。当時の技術では、潜航時の探知能力はまだまだ幼稚だったのである。
潜水艦のその本質は、攻撃兵器である。
身の保身に走って攻撃能力を減じたとなれば、潜水艦の本質に反する動きとなる。
実際、第二次世界大戦中のシュノーケル装置はその装備数の少なさも手伝って大勢に影響を与えることは無かった。シュノーケル装置がその本来の能力を発揮できるようになるのには、水中探知技術が向上し、真の水中鑑としての能力が求められるようになった戦後のことである。
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