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種子島に漂着したポルトガル人がもたらした銃が日本における鉄砲の始まりだとする説。
1543年8月(天文12年6月)大隅(鹿児島県)にある種子島の西村浦にポルトガル人が漂着。その時手にしていた鉄砲を見た島主種子島時堯は、その百発百中の威力に驚き、二千両で鉄砲2挺を購入。家臣の篠川小四郎に火薬の製法を学ばせ、八板金八兵衛に一挺を分解調査の上、製銃の技術を習得させた。更にこれを伝え聞いて教えを乞いにやって来た紀州(和歌山県)根来寺の有力な子院である杉之坊の門主津田監物に対し、銃一挺を分け与えると共に製薬法と射撃法を教えた。その後、将軍足利義輝はその功を賞し、朝廷は従五位下に任じ、また1923(大正12)年1月の皇太子御成婚の大典に際して、特に旧功を嘉して正四位を贈られている。更に彼には門弟が数十人居たが何れもが日本の砲術諸流の開祖となっている。
教科書にもそう書かれているほどの定説中の定説だが、この説の唯一の根拠となっている「鉄炮記」は実は時堯の子の久時が父の名を後世に残すために僧南浦に命じて代作させたものであるため、その信憑性は著しく悪い。特に最初の渡来が1543(天文12)年であるというのはほぼ否定されている。また種子島に漂着したポルトガル人が携えていた、火縄銃としてはほぼ完成したものではなく、「石銃」や「鉄放」と言われていた支那から渡来したとみられる旧式銃であればそれ以前から有ったこともまず間違いない。
ただ「初渡来」かどうかはともかくとして、此の頃に種子島に鉄砲が伝来したということそのものは間違いなく、また時堯が製造法、射撃法、火薬調合法などを会得していたのも確かで、だからこそ火縄銃の代名詞となっている。
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