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1531(享禄4)年〜1575(天正3)年。晴近。侍大将。伯耆守(ほうきのかみ)。秋山左衛門信任の子。秋山氏の先祖は新羅三郎義光であり、武田氏の族臣である。武田二十四将の一人。
信友は武田晴信(信玄)の父武田信虎追放の年である1541(天文10)年に元服し、翌年諏訪攻めで初陣。それから僅か5年後の1546(天文15)年、五十騎持の侍大将となる。それから高遠城守将、飯田城代を務め、伊那谷の重要拠点を守った。三方原の戦いでは、山県昌景とともに徳川家康を散々に追い回し「さても信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男ぞ」と評された。
しかし単なる猪武者というわけでなくではなく、1567(永禄10)年に織田信長が嫡子織田信忠と晴信の四女於松との婚約を申し込んだとき、重臣達がこぞって反対する中、一人友好を結ぶ利を唱えて賛成を主張し、戦略眼も持ち合わせていた。結局、晴信は、信友の主張を入れているので、晴信からの信任も厚かったのであろう。信友はこの婚約の織田からの結納品に対する返礼の使者に選ばれ、岐阜を訪れて、居並ぶ織田家諸将の前で堂々と晴信の名代を果たしているので、礼儀作法にも明るかったと思われる。
織田との仲が悪くなると、織田領であった東美濃の岩月城を攻略することになる。この城を無血開城させ、信長の叔母にあたる旧城主遠山景任の未亡人を娶る。同時に次代城主として預けられていた信長の五男・御坊丸(後の織田源三郎勝長)を質子として勝頼のもとに送っている。
その後はそのまま同城城主となり、対織田最前線を守ることとなる。武田がまだ優勢の間は良かったが、1575(天正3)年の長篠の戦いで形勢が逆転すると一挙に苦境に立たされる。織田軍の猛攻に対し、巧みな籠城線を展開し、大軍相手に五ヶ月間も持ちこたえたが孤立無援であり、やがて兵糧が尽き降伏。かつて船を浮かべて信長の歓待を受けた長良川原で逆さ磔の極刑に処せられている。なおこの時、信長は和議の約束であった城兵の身の安全を無視して皆殺ししたばかりでなく、己の叔母まで処刑している。
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