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1494(明応3)年〜1574(天正2)年。五郎。信直。左京大夫。陸奥守。従四位下。甲斐守護。父:武田信縄 子:武田晴信(信玄)、信繁。
1507(永正4)年、父信縄の死によりわずか14歳にして甲斐守護職と武田家の家督を継ぐ。信縄の時代から甲斐守護職をめぐって争っていた叔父・武田(油川)信恵はこれを好機と見た。信恵は弟の武田(岩手)縄美を副将にし、母の実家の小田山氏をはじめ諸方に援軍を募り、その兵の総勢は約五千人にも上った。1508(永正5)年10月、信虎は嵐をついて敵の勝山城に侵入。信虎は奇襲効果を上げるために嵐の中全員徒歩移動したのに対し、信恵は安心しきって不寝番もおかない不用心ぶりであった。当然のように奇襲は大成功。信虎は内藤・秋山・板垣といった武田譜代の猛者たちとともに敵陣へ突っ込み、城内は大混乱。この結果、油川信恵・信貞父子は討死、縄美は自刃、生き残った将兵は伊勢新九郎(北条早雲)を頼って落ちていった。1515(永正12)年、大井信達が今川氏親の援助で挙兵すると、翌年信達を降伏させ、その娘を室としている。このように、分裂状態だった国内をまとめあげて甲斐における支配力を高めていく。
1519(永正16)年、甲斐国内の動乱が収まってきたところで、本拠を川田館から躑躅ヶ崎(つつじがさき)に館を移した。ここで、有力土豪層の城下集住策を進め、城下町の東西出入口部には市場を設けて物資の流通を確保し、またたくさんの寺社も創建するなど整然とした都市計画のもとに建設されている。この館は孫の武田勝頼が新府に移すまでの60年間にわたって武田氏の本拠となっているが、それというのも甲斐府中(甲府)と名付けられたこの地は、甲斐の中心に位置し、甲府盆地一帯を眺望できる場所であたからである。
甲斐をある程度平定した信虎は信濃に食指を動かし信濃諏訪郡に度々攻め入ったが諏訪氏の勢力は大きく、いっこうに効を奏さないため和睦して鉾先を佐久に転じた。
1536(天文5)年、駿河の今川氏輝が24歳の若さで没すると、氏輝の弟の承芳(のちの義元)と異母兄の玄広恵探との間で家督争いが起きた(春倉の乱)。ここで、信虎は北条氏綱とともに義元を援け、義元は今川家の家督を継ぐことに成功した。この見返りとして、その年、今川義元は武田晴信のために三条公頼の娘を斡旋し、翌年には今度は信虎が自分の娘(信玄の姉)を義元に嫁した。ここに今川と武田の同盟が成立したのである。
この様に軍事・外交・内政と多方面にわたってその才能を発揮した信虎であったが、度重なる出兵は民に重税を強い、折からの大洪水、飢饉、疫病などの天災もあったが、信虎はそれを顧みなかったため、民の心は離れていった。また、家臣に対しても非道さを見せ、奉行衆が他国へ逃亡するという事件が起こっている。更には次子の武田信繁を偏愛し、嫡男・晴信(信玄)を廃そうという動きまで見せたため、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌ら重臣に擁立された晴信によって娘婿先の駿河・今川家に追放された。
追放後、やむなく今川家で寄食する身となったが、義元が桶狭間の戦いで討死すると、晴信に自らが寄食しているその駿河への侵攻を促す書状を送っている。この書状を晴信は無視しているが、当の今川家に露見してしまいここからも追放の憂き目を見る。駿河追放後のことはよく知られていないが、京に行き、将軍・足利義輝に謁見したり、高野山に登ったことなどが知られている。
晴信の死後、孫の勝頼によって信濃・高遠城に引き取られるが、そのまま甲斐の地を踏むことなく、翌年同地で病没する。
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