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?〜1548(天文17)年。備前守。武田信虎の代からの重臣で板垣信方と共に「職」を務める。
武田信虎から「虎」の字の書下しを受けている。武田晴信(信玄)による父信虎追放劇の時には、晴信擁立派の中心的人物となる。それ以降も若き晴信を支え、晴信に戦の駆け引きを伝授している。合戦では常に飯富虎昌と先陣を競う猛将で、敵軍から恐れられており、戦場で「甘利隊前へ!」とかけ声がかかっただけで敵が退散したとの史実があるぐらいである。『甲陽軍鑑』でも「用兵、采配、駆け引きの妙は武田家中でも右に出るものはなし」と絶賛され、他にも「猛り狂う野牛を野に放つがごとく」「采配ぶりはまことに見るべきものありて」と評されている。
1548(天文17)年、上田原の合戦にて信方とともに戦死。この戦い以降晴信は不敗の名将に成長していったので、彼は身をもって晴信への軍事教育の総仕上げをしたとも言える。
衆議院議員の甘利明は彼の子孫である。
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