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?〜1582(天正10)年。幼名:孫六。刑部少輔、信連、信綱。逍遙軒(しょうようけん)と号す。父:武田信虎(四男(六男説アリ))。子:武田信澄。
甲斐・武田氏一族。親類衆騎馬八十騎持。はじめ刑部少輔を称し、兄・晴信(信玄)没後の1573(天正元)年に落髪、出家し、逍遙軒信綱(または信連)と改名。
1571(元亀2)年、勝頼に代わり信濃高遠城主を務め、のち伊那郡大島城主となる。兄・武田晴信を助け、穴山信君と並ぶ御親類衆の筆頭格で、主にその本陣守衛の任を担った。
容貌が晴信に酷似していた為、その影武者を務めており、晴信の死後、その死を隠すため、兄と偽って北条氏政の使者・板部岡江雪斎を欺いた逸話がある。
長篠の合戦にも参加するが、途中で勝手に退却してしまう。1581(天正9)年、織田信長に対抗するために飯田大島城に入城。翌年、織田信長が信州に侵攻してくると、戦わずに甲府へ撤退。織田信忠に捕らえられて、府中相川で処刑された。
また、優れた文化人でもあり、父・信虎の絵画(甲府大泉寺所蔵)、母・大井氏の絵画(甲府長禅寺所蔵)を初めとした多くの絵画、彫刻が残っている。
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