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浄瑠璃・歌舞伎の劇作家。本名 "杉森信盛"、幼名 "次郎吉"。越前出身。1653〜1724(承応2〜享保9)年。出生地には多くの説があるため、未詳である。
越前より京都に上った近松は、公家の一条恵観(けいかん)に仕え、また山岡元隣に師事していた。しかしどちらも1672(寛文12)年に死去している。翌年正月より、幾多の浄瑠璃作品が著されている。これより近松は宇治加賀掾の元で浄瑠璃作家としての修行時代に入る。
1683(天和3)年、「世継曽我」が宇治座で上演される。さら竹本義太夫の竹本座旗揚げ興行に「世継曽我」が語られ大評判となり、浄瑠璃作者としての地位を確保する。また1693(元禄6)年から1721(享保6)年頃までは、歌舞伎作者としても活躍している。
1685(貞享2)年、大阪竹本座で「出世景清」(しゅっせかげきよ)が演じられる。これは竹本義太夫から要請され著した第一作目であり、近松は世間に才能を認められる。内容は平家の侍大将・悪七兵衛景清と彼を愛する遊女・阿古屋の嫉妬による裏切りという悲劇的な葛藤を描き、新しい悲劇の形を作り出した画期的な作品。
1703年5月22日(元禄16年4月7日)、大阪の曽根崎にある "露の天神の森" で心中事件が起こる。この心中事件はすぐさま歌舞伎の世話狂言に仕立てられたが、人形浄瑠璃にはこのような習慣がなかった。そこで近松は浄瑠璃にするために台本を書き上げ、5月7日「曽根崎心中」が竹本座で上演される。この作品は世話(世の中に起きた事件)を扱ったため、"世話物浄瑠璃" と呼ばれるようになった。道行文に代表される近松の文章力と、主人公であるお初と徳兵衛の純粋な恋心をひたすらに書きつけた単純明快なストーリーが民衆に大きく受けた。
特に「曽根崎心中」の道行文(この場合、心中への旅へ向かう冒頭部分)は当時の有名な儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)に絶賛された。これ以後、名文の代表といえば「曽根崎心中」の道行文と言われるくらい有名な文章となった。
1705(宝永2)年、竹本座の座元が竹田出雲に変わり、近松は同座の専属作者となる。
1723(享保8)年、幕府は世話物の影響で急増した心中を取り締まるべく、心中者の刑罰を定め、心中物の出版と上演を禁止した。
1724(享保9)年1月に、生涯最後の作品「関八州繋馬」(時代物)が竹本座で上演される。
同年11月上旬、自筆辞世文を書き、22日に大坂・天満の家で死去。72歳であった。戒名は「阿耨院(あのくいん)穆矣(ぼくい)日一(にちいち)具足居士(ぐそくこじ)」。
近松門左衛門-世話物一覧 心中物 : 曽根崎心中、心中二枚絵草紙、卯月紅葉、卯月潤色、 心中重井筒、心中刃は氷の朔日、心中万年草、今宮心中、 生玉心中、心中天の網島、心中宵庚申 処罰物 : 五十年忌歌念仏、淀鯉出世瀧徳、冥途の飛脚、博多小女郎波枕 女殺し油地獄 姦通物 : 堀川波鼓、大経師昔暦、鑓の権三重帷子 仮構物 : 薩摩歌、丹波与作待夜の小室節、夕霧阿波鳴渡、長町女腹切 山崎与次兵衛寿門松 曽根崎心中 道行文 この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、 あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生(こんじょう)の 鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽(じゃくめついらく)と響くなり
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