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1615(元和元)年、大坂城を徳川家康が攻めた戦い。
前年の冬の陣の後、講和(和睦)していた両軍であったが、徳川氏側が講和条件の「城の外郭を壊す」を拡大解釈し、二の丸・三の丸までも強引に破壊したため、大坂城は丸裸にされてしまった。これに豊臣氏は激怒し、豊臣軍内部は挙兵を主張する大野治房、長宗我部盛親、毛利勝永ら、戦争回避を説く大野治長、後藤基次、どちらにもつかない中間派を形成した真田信繁(幸村)ら三派に分かれたが、結局傭兵追放を要求する徳川氏への反発を強めた傭兵たちが決戦を主張したため、挙兵した。それに対し徳川軍は16万人の兵力を動員し、1615年5月25日(慶長20年4月28日)、遂に戦闘が開始された。
この戦いは城を頼みに出来ない豊臣軍の傭兵部隊長の真田信繁(幸村)、後藤基次(又兵衛)らが全軍で突撃し、徳川軍がそれを迎撃したため、両軍の部隊長の戦死が相次ぐ死闘となり、死者は2万名と推定されている。徳川軍本陣まで真田隊は肉薄、家康は本陣を捨てて逃走し、ようやく助かる程だった。しかし、結局多勢に無勢で信繁らは戦死し、秀頼は自殺。大坂城は爆発炎上した。
この戦いでは非戦闘員の町民が戦闘に巻き込まれ、多くの被害を出し、淀川は死体で埋まり、大坂・堺の街は炎上した。この逃げまどう民衆を描いた絵(大坂夏の陣図屏風)が現在も残り、当時の悲惨な状況を伝えている。
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