インターチェンジ
読み:インターチェンジ
外語:IC: InterChange

 ある道路と別の道路が交差し、相互に乗り換えを行なうための道路(ランプ)の交点のこと。略してICという。
目次

概要
 日本の場合、一般に、自動車専用道路(自専道)と一般道が交わるところをインターチェンジと呼ぶ。対して、自動車専用道路同士が交わるところはジャンクションと呼ばれる。
 なお、三郷(自専道2本+一般道の交点)では、三郷IC/JCTとよく表記される。

特徴

定義
 「インターチェンジ」という用語の定義は、道路法にも道路構造令にもない。
 いずれの法令も「立体交差」という用語を使っており、つまりインターチェンジとジャンクションの呼称上の区別をしていない。

設備
 インターチェンジには、次のような設備が付けられる(ことが多い)。
 一般道のスピード違反車を捕獲するため、白バイやパトカーが待機する場所が作られることもある。
 近年は、出入口を増やす要望への対応を、人件費などを減らしながら実現するETC車専用のスマートインターチェンジとして実現する例がある。

形状分類
 形状に応じて、次のように分類されることもある。
 建設地の地理的な都合などから、これらの不完全な構造が複数併合して作られることもある。

インターチェンジ番号
 インターチェンジには、番号が振られることが多い。
 通常は、起点を1とし、終点に向かって1ずつ増やしていく。但し建設中箇所がある場合などは、途中の番号を飛ばしておくなどの措置が執られ欠番が発生することもある。
 後からICが作られても番号の振り直しは原則としてせず、直前のIC番号に枝番を付けて呼ぶ。例えば、5番と6番の間に作られたら5-1番、5-1番と6番の間に作られたら5-2番、といった感じである。5番と5-1番の間といった場合は、やむを得ず振り直しが生じ、新規を5-1番、既存の5-1番を5-2番に番号変更、などとする。
 枝番以外の番号が変更されることは稀だが、北陸自動車道のように、全線開通時に全てのIC番号を振り直した例はある。いずれにしても、一つ二つのICによって全体に影響が出ることはない。

インターチェンジを降り損ねた
 間違えて降りる予定のインターチェンジを行き過ぎてしまった場合、気づいた次のインターチェンジを降り、料金所出口の一般レーン(ETC併用レーンの場合はETCカードをあらかじめ抜いておくこと)に入って料金所スタッフに申し出れば、料金所スタッフの誘導に従って、戻ることができる。
 料金精算機の場合は、呼出ボタンや呼出レバーにより申し出ればよい。
 間違っても道路を逆走したりしてはいけない。無茶をしなくても、安全に戻ることができる。

補足

賛成と反対
 高速道路建設ともなると、建設熱望が発生したり、逆にプロ市民による猛烈な反対運動が発生する。インターチェンジ(IC)建設ともなれば、さらに熱望と反対が加熱することもある。
 しかし高速道路は需要がある地点同士を結ぶために設計、建設されることが多い。その「途中」は単なる通過地点以外の何ものでもなく、まして「途中のIC」など本来は不要なものである。しかし建設に際し、地元にICが熱望されることが多いため、需要があるとは思えないICが建設されるのである。
 地元にICを要望されると建設費と維持費が高騰して困るが、反対運動でICは要らないとういのは、建設する側にとっては好都合なのである。後で欲しいと言われたら、金を出すなら作ってもよい、と言えば済むからである。その典型は常磐自動車道流山ICである。

流山IC
 千葉県流山市は、何を作るにしても反対することで有名。出来たら出来たで、今度はそれを便利に愛用するという困った人達である。
 流山市民は常磐道の建設に対し、猛烈な反対をした。市民の意向により、結果として流山市内にICが作られることはなかった。しかしいざ開通するとやはり便利なのでICが欲しいと当時の日本道路公団(JH)に泣きつくが当然相手にされず、結局地元負担で流山ICを建設した。
 地元負担の建設費は地元で稼いで返さないとならないため、流山ICのランプウェイは当時、流山有料道路という有料道路になっていた。他の経路で下の道路に降りる方法は無く、このため2015(平成27)年4月に無料化されるまでは流山ICで乗り降りすると高速代とは別に100円(普通車の場合)が強制徴収されていた。しかも以前は、降りた先も松戸野田有料道路という有料道路だった。

長野道
 長野自動車道建設時、長野県大町市が高速道路建設に反対したため、長野道は当時の豊科IC(後に安曇野ICに改名)から麻績IC経由で更埴JCTに繋がり長野市方面に向かうことになった。
 大町市は観光客が激減し、温泉街は壊滅。その後、別の高速道路を熱望したが、建設省案(松本糸魚川連絡道路など)は大蔵省が蹴った(長野県は羽田元総理のお膝元)上に長野県知事に就任した田中康夫も不要とし、計画が立ち上がっては白紙化が続き、実現することはなかった。
 観光客が興味があるのは黒部ダム周辺のみであり、元々大町市は単なる通過地点に過ぎなかったが、その重要な機能を自ら放り捨てた大町市の商店街は現在、シャッター街となった。

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