地動説
読み:ちどうせつ
外語:Heliocentrism
地球
は
自転
しながら、静止している
太陽
のまわりを
公転
している、とする学説。
目次
概要
歴史
太陽系
ガリレオ
ケプラー
ニュートン力学
ブラッドリーの光行差
銀河系宇宙
バチカンその後
概要
「宇宙は太陽が中心」とする学説が太陽中心説であり、太陽を中心として天体が動くとする学説が地動説である。
紀元前のアリストテレスの時代より長く、「宇宙は地球が中心」とする学説である地球中心説に基づき、地球を中心として天体が動くとする学説
天動説
が長く信じられてきた。天動説も僅かにはあったが、主流ではなかった。
近代の太陽中心説/地動説は、16世紀に
コペルニクス
が提唱し、従来の地球中心説/天動説を大きく転換するものとなった。
後世、哲学者イマヌエル・カントが自身の哲学を「コペルニクス的転回」と表現したことに、その名を残している。
歴史
太陽系
紀元前より、
太陽
と
月
、そして水金地火木土までの
惑星
の存在は知られていた。
天動説では
順行
・
逆行
、地球との距離の変動などの惑星の複雑な動きを説明するために、従円と周転円というものが用意された。
しかし、惑星がこのような複雑な軌道を持つことに疑問が持たれた。太陽を中心に置き、地球も他の惑星と同様に公転するとすれば、惑星の複雑な動きは単純に説明できるようになる。
この説は、すぐに受け入れられた訳ではないが、やがてこの説は広まり、天動説から地動説へと移っていった。
ガリレオ
科学的手法によって地動説を導き出したのは、イタリアの天文学者
ガリレオ・ガリレイ
である。
ガリレオは、
ガリレオ式望遠鏡
を発明し、
望遠鏡
を天体観測に初めて用いた。
これにより
木星
の
衛星
や
大赤斑
の発見、月面の
クレーター
の発見など、天文学に大きな功績を残している。
ガリレオはコペルニクスの地動説を支持し、その業績から今日では天文学の父とも称されるが、地動説を発表した当時は「地球は
宇宙
の中心」を教義で主張する
キリスト教
により、厳しく弾圧された。
1616(元和2)年にバチカンのローマ教皇庁より地動説禁止令が出され、ガリレオは宗教裁判によって地動説放棄を命ぜられた。この時「それでも地球は動いている」という名言を残したとされている。彼の没後、彼の考えはヨハネス・ケプラーへと引き継がれた。
ケプラー
ローマ教皇庁などからの地動説への弾圧が強まる中、ドイツの天文学者
ヨハネス・ケプラー
は地動説を支持、天文観測を続けた。
母親が魔女裁判に掛けられるなどの迫害を受けるような中でケプラーは、
ケプラーの法則
と呼ばれる三つの重要な法則を発表した。これは、惑星の軌道は楕円であり、面積速度は一定であり、
公転周期
と軌道の長半径は比例関係にある、とするものである。
元々コペルニクスが発表していた地動説は、惑星は円軌道であり、このため周転円を含む不完全なものであった。ケプラーは観測記録などから、
ケプラーの第1法則
として惑星は楕円軌道を取ることを見出したのである。
そして1627(寛永4)年、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の勅命により、ケプラーは天文表「ルドルフ表」(ラテン語原題Tabulae Rudolphinae Astronomicae)を作成した。これは惑星の推測位置などを記した星表で占星術で使われるものだが、地動説に基づいて作られたこの星表は従来とは比較にならないほど高精度であり、これ以降、地動説は急速に普及していくことになる。
そんなケプラーも、またガリレオも、「空を飛ぶ鳥が地球の動きに取り残されない理由」を説明することができなかった。この問題が解決するのは彼らの没後で、ニュートンの登場を待たなければならなかった。
ニュートン力学
ケプラーが没してから約12年後、ガリレオが没してから約1年後、
ニュートン
がこの世に生を受けた。
イギリスの物理学者ニュートンは、現在では
古典力学
とも呼ばれる
力学
(ニュートン力学)を提唱し、現在の科学の基礎を作り上げた。
三つの運動の法則(運動の三法則)として、慣性の法則、ニュートンの運動方程式(質量・加速度の法則)、作用・反作用の法則、があり、ニュートン力学では、物体はこの法則に従って運動する。
慣性の法則によって、慣性は定式化された。さらにニュートンは、ニュートンの運動方程式に
ケプラーの第3法則
を導入することで、万有引力の法則を導き出した。
こうして、天動説の従円と周転円は科学的には全く説明ができないが、地動説は矛盾無く説明できる上にあらゆる疑問に答えられるようになった。ただしこの時点ではまだ理論のみで、地動説の証拠は見つかっていなかった。
ブラッドリーの光行差
観測者が移動している場合、真上から差し込む光であっても、斜めから差すように観測される。これが光行差である。
地球から天体を観測したとき、観測者が「移動」する最大の原因は、地球の
公転
である。公転によって起こる光行差を年周光行差といい、1728(享保13)年にイギリスの天文学者ジェームズ・ブラッドリーにより発見された。そしてこれが、地球が動くとする地動説の、最初の直接証拠となったのである。
銀河系宇宙
地動説が確固たるものとなると、
ハーシェル
によって銀河系宇宙が提唱された。この時の銀河では、太陽は銀河の中心にあるものとされた。
しかし現在では、太陽は銀河の中心には無く、実は銀河系の隅の方にあることが分かっており、またその
銀河系
も必ずしも
宇宙
の中心(というものが実際にあるのかどうかは別の問題として)では無いと考えられていて、太陽は、宇宙でごくありふれた
恒星
の一つにすぎないと考えられるようになっている。
バチカンその後
ガリレオはキリスト教徒であったが、宗教と科学の分離を主張していた。バチカンはそれを認めず、ガリレオを宗教裁判で断罪した。
信仰のために科学を弾圧したキリスト教であるが、バチカンは長くその非を認めなかった。
彼の死後341年たった1983(昭和58)年5月9日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世はガリレオの宗教裁判の誤りを認めた。
そして彼の死後350年たった1992(平成4)年10月31日、ローマ教皇庁もようやくガリレオ裁判の誤りを認め、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がガリレオ・ガリレイに謝罪した。
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