ヨハネス・ケプラー
読み:ヨハネス-ケプラー
外語:Johannes Kepler
ドイツの天文学者。元亀2年12月27日(1572年1月12日)〜1630年11月15日(寛永7年10月11日)。
ドイツのビュルテムベルク生まれ。病弱だったため、牧師にしか向いていないと見られ、マウルブロンの神学校に通う。
1587(天正15)年にチュービンゲン大学で聖職を志して神学を専攻するが、メストリン教授に師事して地動説に傾倒。卒業後の1593(文禄2)年にオーストリーのグラーツ州立学校に数学と天文学の教師として赴任するが、同時に占星暦の作成を委囑され、それが良く当たることから評判を得た。ケプラー自身は占星術を信用しなかったが、薄給を補うため内職として心ならずも続けていた。「娘の占星術が稼がなければ、母なる天文学は飢え死にしただろう」と友人への手紙で真情を吐露している。
1599(慶長4)年、彼は新教徒(ルター教徒)だったため、新教徒迫害政策によってグラーツを追放され、翌1600(慶長5)年、プラハでティコ・ブラーエの助手になる。翌年にブラーエが死去すると、彼の膨大な観測データとルドルフ二世の宮廷天文学者の地位も受け継ぐ。ここで特にブラーエの火星に関する観測値を分析し、1609(慶長14)年には "新天文学" の中で、ケプラーの第一・第二法則を、1619(元和5)年に "世界の調和" の中で第三法則を示した。
その他のケプラーの天文学上の業績として、1604(慶長9)年へびつかい座の超新星を発見して恒星界の現象であることを確認した。この超新星は "ケプラーの星" とよばれ、強力な電波星として注目されている。1611(慶長16)年には倒立だが視野の広いケプラー式望遠鏡の原理を創案。また、1627(寛永4)年には、ルドルフ二世の名に因む『ルドルフ表』を編修するが、これはケプラーの法則を応用して、日月諸惑星の未来位置を予測計算したもので、船乗り達の安全を保証するに足る航海暦の基となった。
そんな数々の業績を残した彼だったが、新教徒迫害はひどく、1612(慶長17)年にはプラハからも追放され、リンツに移り、1615(元和元)年には母親が魔女裁判にかけられてしまっている(後に1621(元和7)年に無罪となっている)。1630年11月15日(寛永7年10月11日)、バイエルンのレーゲンスブルクへ向かう途中で死去。
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