日亜化学工業
読み:にちあ-かがくこうぎょう
外語:Nichia Corporation
LED
などに代表される発光体や各種化学材料メーカー。
目次
会社概要
基本情報
沿革
特徴
沿革
青色LED
日亜事件
中村修二の退職
日亜独占の終了
方針転換
第三の材質
緑色レーザー
ノーベル物理学賞
会社概要
基本情報
2011(平成23)年4月現在の情報。
商号: 日亜化学工業株式会社
商号(
英語
): Nichia CORPORATION
本社: 徳島県阿南市上中町岡491番地
資本金
: 467億4,144万1千円
代表者
代表取締役
社長: 小川英治
従業員: 7,300名(グループ合計、2011(平成23)年4月現在)
株式公開: 非公開
沿革
1956(昭和31)年12月: 設立
特徴
従業員だった
中村修二
により
青色発光ダイオード
(青色LED)が実用化され、製品化された。
現在の主力製品は、青色LEDと、青色LEDに発光体を組み合わせて作られた白色LEDで、この白色LEDは
携帯電話機
のバックライト用途として普及している。
沿革
青色LED
かつて、この会社にはこれといった売りは無かった。しかし、当時在籍していた中村修二が青色LEDの実用化に成功したことで、この会社は大きな転機を迎えることとなった。
青色LEDは将来性のある技術で、熾烈な特許抗争が繰り広げられている。現在主流の、第二の材質とされるInGaN素材の青色LEDに関する多くの技術は日亜の特許となっていて、同社がほぼ独占生産をしていたため、赤や緑と比べ青は高価で、いつになっても価格が下がらない要因ともなっていた。
日亜事件
日亜化学は、創業者の娘婿と地銀が組み、実の息子たちや創業者一派を全員追い出して会社乗っ取るという、近年でもまれにみる酷いお家騒動に巻き込まれた。
そのとき、創業者から目をかけられ小企業だった日亜を押し上げた立役者である中村修二も当然被害に巻き込まれた。ここでは、これを日亜事件と呼ぶこととする。
詳細は後述するが、中村修二がノーベル賞の受賞スピーチで亡き日亜創業者に謝辞を示し褒め称えたのに対して、乗っ取った娘婿(現社長)には何の言葉も無かったのは、中村も日亜事件の被害者の一人だからである。
なお、追い出された創業者の実の息子も黙ってはおらず、かつて小川雅照が「
父一代の日亜化学―青色発光ダイオード開発者中村修二を追い出したのは誰だ!
」と題する告発本を出版している(既に絶版)。
事件の関係者は次の通り。
創業者 小川信雄
娘婿 小川英治 (乗っ取り犯)
実の息子 小川雅照 (告発本著者)
実の息子 小川智滋 (小川英治により常務から平取に降格させられ、更にそれも外され退社、後に日亜と裁判沙汰に)
日亜を押し上げた立役者 中村修二
日亜の二代目が腐っていなければ中村修二も違う動きをしていたはずだが、研究者でも企業が腐れば見捨てるという良い例であろう。また中村修二が日亜に対して裁判にこだわったのも、恩人である既に亡き創業者の無念を晴らすための弔い合戦だったとも考えられる。
中村修二の退職
1999(平成11)年から2000(平成12)年頃は、日亜の敵は主に豊田合成だった。豊田合成は、青色LEDの発明者である
赤崎勇
および天野浩と共同で研究していた企業である。しかしこの頃は日亜が優勢で、泥沼の裁判劇で豊田合成の特許無効を勝ち取るなどしている。従って、日亜の中村と、豊田合成の赤崎&天野は折り合いが悪かったとされる。
その訴訟合戦は遂に海外にまで飛び火し、日亜のライバルの照明開発会社である米クリーに、特許侵害で提訴された。さらに日亜にとって致命傷となったのが、中村修二が退職し、またその前後に大きなトラブルを日亜が起こしてしまったことである。
中村修二は米クリーの関連会社に非常勤研究員として迎え入れられ、自ら発明し日亜の特許となっている技術を用いない、新しい青色や白色LEDの開発などに尽力することになる。対抗企業を作りたくなかった日亜は、中村修二に24時間の監視を付けたり出したゴミまで調べたりした結果、遂に中村修二に訴えられることになる。この訴訟がいわゆる200億円訴訟である。
日亜と中村に関する論評において、日亜化学は当時零細企業だったにしては充分な給料を払っていて中村は銭ゲバだ、といった論が見られるが、結局のところそれは大きな問題ではなく、こういった行為が問題の本質であったといえる。
日亜独占の終了
中村とクリーの製品は住友商事によって販売される。
日亜は販売差し止めを求めて住友商事を提訴するが、特許を侵害していない以上日亜に勝ち目は無く、2001(平成13)年5月15日に東京地方裁判所は日亜の全面敗訴という
判決
を言い渡した。日亜は控訴したが再び敗訴した。
この裁判により、日亜による青色LEDや白色LEDの独占に終止符が打たれたこととなり、事実上、日亜の独占時代はここで幕を閉じたことになる。
更に半導体メーカーの、ローム、星和電機、シャープ、三洋電機などが青色LEDや白色LEDに続々参入し、うち幾つかが日亜の特許に抵触しない製品の提供を開始した。そしてまた、日亜はロームや豊田合成などから次々と特許侵害で提訴され、日亜は次々と敗訴した。
方針転換
このままジリ貧の状況を維持するのは危険と判断した日亜は2002(平成14)年10月に方針転換、それまでの独占製造を諦め、自社特許のライセンス提供を開始した。
中村修二が日亜で取得した特許も間もなく切れる上、そもそも日亜にそれ以上の開発能力を持った人材がいないことから、独占を死守するよりも他社と協調する方が得策と考えたのだろうと見られる。
実際、アメリカに渡った中村は、
2008(平成20)年に調べた範囲では、2004(平成16)年あたりから少なくとも20件以上の特許を、カリフォルニア大学の名義で出願している
。
対して日亜は、出願人且つ発明者が中村修二となった特許出願が多数確認されている。これらは、中村修二在籍中の特許出願の分割出願である。分割出願があるということは、中村修二が日亜化学に在籍中にした発明が、日亜にとっては重要な柱となっていることを意味する。
第三の材質
2004(平成16)年12月、SiC、InGaNに次ぐ第三の材質として、酸化亜鉛ZnOを用いた青色LEDの開発に
川崎雅司
・東北大金属材料研究所教授らのグループが世界で初めて成功した。
ZnOは化粧品などに多用される安価な
物質
であることから、実用化されれば高価な青色LEDの低価格化が実現できると期待される。そして、日亜の特許を使わずに済む。日亜は、これに対抗する技術の開発には至っていない。
緑色レーザー
日亜は、青色LEDに必要な技術は日亜の様々な研究員が発見したもので、中村の技術はその一つに過ぎない、中村の貢献度が大というのは誤り、といった喧伝を続けた。裁判でも同様である。
もし日亜の主張どおりなら、日亜の技術者の面々の力を合わせれば、中村と同等以上の実績を残せて然るべきである。だが現実には、ブレークスルーの当事者、中村修二だけがこのような開発を続け成果を出していながら、日亜には同等の開発をできる人材がいないことを見れば、結果は明らかである。
カリフォルニア大学の教授となった中村が経営に参加するベンチャー企業、カーイ社(米カリフォルニア州)は、緑色のレーザー光を連続的に出すことができる
半導体
素子の開発に成功した。この半導体素子を使えば、白色LEDもより高効率のものが緑色レーザーで可能になると見込まれ、実用化次第では日亜は更に大きなライバルを抱えることになる。
ノーベル物理学賞
2014(平成26)年10月7日、日亜で青色LEDを実用化させた
中村修二
が
ノーベル物理学賞
を受賞した。中村修二はアメリカで研究を続けるため、アメリカ国籍となっていた。
中村修二は会見において「誰に一番感謝していますか」という質問に、日亜の元社長であり元会長だった故・小川信雄を最大の恩人として挙げ、「最高のベンチャー起業家」として讃え謝意を示した。中村修二の日亜退職の切っ掛けを作ったとされる現社長に対しては、何の謝意も示さなかった。
結果としてこのような頭脳を日本から失わせる結果を作ってしまった日亜は「日本人がノーベル賞を受賞したことは大変喜ばしい。とりわけ、受賞理由が中村氏を含む多くの日亜化学社員と企業努力によって実現した青色LEDであることは誇らしい」とのコメントを出している。
再検索