コシヒカリ
読み:コシヒカリ
外語:Koshihikari

 の品種の一つ。
目次

概要
 福井県農事試験場(当時)で産み出され、新潟県農業試験場で育てられ、そして1956(昭和31)年にコシヒカリの名で登場した。
 母本は母が農林22号、父が農林1号である。
 農林番号は農林100号、旧系統名は越南17号。

特徴

名称
 コシヒカリの名の由来は不明。
 諸説あるが、「越(こし)の国に光り輝く」の意であると考えられている。
 越の国とは、後に越前・越中・越後に分割された国で、現在の新潟県から福井県の地域を指す。

栽培地
 北陸・東北地方で広く栽培されている品種で、寒さに強く、痩せた土地でも育つ。
 北限は山形県と言われ、それ以南のほぼ全ての県での作付けが見られる。
 しかし稈が弱く倒伏しやすい上、稲熱病(いもち病)などにも弱いという弱点があり、育て方にはコツが必要である。


 宮城県のササニシキと並ぶ良食味品種としてよく食べられ、特に新潟県の魚沼産コシヒカリは後に日本一旨い米と呼ばれるようになった。
 コシヒカリは粘りが強い食味を特徴とし、あっさり味のササニシキと二極を成した。米艶も優れ、言わずと知れた人気銘柄の一つである。
 誕生の苦労話についてはNHKのプロジェクトX 第26回で紹介されている。

誕生まで
 今でこそ米の代表品種となったコシヒカリであるが、その誕生は簡単なものではなかった。
 今では、その誕生経緯は伝説となっている。

品種の開発
 コシヒカリの原種を作ったのは福井県農事試験場である。全国の20以上の農試に依頼し、生育の研究が行なわれた。
 しかしこの当時は、まだ日本の米自給率は100%に達しておらず、「増産第一」が国是であった。つまり、味は二の次三の次、何より量が重要とされていたのである。
 生育は民間の田、試験田を用いるが、この理由から千葉と新潟以外での生育は諦められ、更に実地栽培に成功したのは新潟県農業試験場のみであった。

研究が続く
 さて、増産第一の中でコシヒカリ栽培に従事していたことが明らかとなると、福井県農事試験場の場長は左遷の憂き目に合う。場長は抗議のために退職し、故郷富山で百姓として一生を過ごすことになった。
 困ったのは試験田の持ち主である。非常に美味であったコシヒカリ、そのまま失われるのは非常に惜しいものであった。
 かくして試験田の持ち主は、こっそりコシヒカリの栽培を続けた。また、新潟農試の若手の職員も、これをこっそりと手伝っていた。

新潟・魚沼・コシヒカリ
 自主流通米が解禁となった後も、新潟には不味い米しかなかった。味より量が重視されていたのだから当然である。
 一説によると「新潟米はネズミもまたぐ」なる悪評があったとされ、それを聞いた県知事は、新潟には美味い米が無いのかと叫んだ所、コシヒカリの存在が明らかとなった。
 この間、試験田の持ち主は、如何にすれば美味しい米が育つかの研究を続けていたため、その技術を用い、魚沼地方に栽培を広めた。
 コシヒカリの美味さは、土壌と栽培技術によるところが大きい。

高級米コシヒカリ誕生
 新潟県経済連は、この米は高級品として売らなければならないと考えた。それだけの味と品質があったからである。
 こうして小田急百貨店で販売をしたが、まだ名も知れぬ米、全く売れなかった。
 そこで「まずかったら全額返金する」と告知した。誰からも返金請求は無く、かくして口コミで「美味い米」という評判が広がり、そして今に至る。

近縁米
 コシヒカリを親にした米は非常に多く、孫、曽孫以降まで含めれば品種は数知れない。
 代表的なコシヒカリの近縁米に、次のようなものがある(50音順)。なお、近縁率は子が50%、孫が25%という単純計算による。突然変異は暫定的に50%として計算し、?を付した。

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