メガROM
読み:めがろむ
ROMカセットで提供されるゲーム機において、そのROM容量が1
メビビット
(1Miビット=1024Kiビット=128Kiバイト)以上となるもの。この当時はまだ
Mi
(メビ)という単位がなかったためメガで代用され、このように「メガROM」と呼ばれていた。
目次
概要
特徴
メガROMの誕生
普及とディスクシステムの終焉
概要
メガROMが広く使われるようになったのは
ファミリーコンピュータ
(ファミコン)からである。
ファミコンのCPUである
RP2A03
は8ビットであるためアドレス空間は64Kiバイトしかない。うち、プログラムROMは32Kiバイト、キャラクターROMは8Kiバイトという制限がある。プログラムROMはCPUに、キャラクターROMは映像LSIの「PPU」に接続されるため、スロットの端子もそれぞれ別に用意されており、結果としてROMカートリッジには2個のROMを搭載する必要が生じ、これがコスト高を招いていた。加えてこの容量で作ることができるゲームは限度があるため、より大規模なゲームを作るための努力がなされた。
このうち、任天堂が出した結論は
ディスクシステム
だった。ハードウェアとしてはプログラムROMとキャラクターROMは容量そのままRAMに変更してあり、このためプログラムから書き換え可能となったため容量の問題はある程度解消された。ディスク1枚の容量は両面で約110Kiバイトあり、従来の3倍少々の情報が保存できた。ディスクはデータの記録ができることはメリットだったが、しかし読み込みが非常に遅いのはデメリットだった。
特徴
メガROMの誕生
サードパーティーはROMカセットのままでROMを大容量化するために、ディスクシステム以前よりプログラムROMのバンク切り替えの試みを続けていた。
バンク切り替え
はパソコンでは一般的な手法だったが、ファミコンでは任天堂はそういったROMカセットは製造しておらず、主に自前でファミコン用カセットを製造できる契約をしていたコナミやジャレコが製造していた。
この技術では、カセットのコネクターとプログラムROMの間にLSIを挿入し、ROMを制御できるようにした。これで32Kiバイトある範囲を4ページに分割し、8Kiバイト単位でROMを切り替え可能とした。こうすることで実行中でないページを切り替えてそちらに移動し、もって理論上は好きなだけROMの容量を増やせるようになった。ROMを制御するLSIでよく使われたのはMMC(Multi-Memory Controller)や、コナミのVRCなどと呼ばれるチップである。
もう一つのROMであるキャラクターROMのアドレスバスはPPUに繋がっているためバンク切り替えは概ね8Kiバイト単位でまるごと変更するものが多かったようだが、ファミコン時代の後期にはプログラムROMも余裕が出てきたためキャラクターROMの情報をプログラムROM側に持ち、一方のプログラムROMをRAMに変えたキャラクターRAMとして任意に書き換え可能としたゲームソフトも少なからず存在した。
このようにして、従来の最大32Kiバイトの4倍容量となる1メガビット(128Kiバイト)やそれ以上の容量を持つ、いわゆる「メガROM」が誕生したのである。ファミコン初のメガROMソフトは1986(昭和61)年に発売された魔界村である。
普及とディスクシステムの終焉
ROMカセット一つで1Miビット(1024Kiビット=128Kiバイト)以上が可能となると、大容量を謳い文句に登場したディスクシステムの片面56Kiバイト、両面112Kiバイト(896Kiビット)の容量をそれだけで上回ることになる。
かくして、メガROMの登場はファミコンにとって大きなターニングポイントとなった。当時、ドラゴンクエストシリーズのように大規模なゲームが増える中では1Miビットでも足りず、メガROMが2個搭載されたり一つで2Miビット(256Kiバイト)あるいはそれ以上の容量のROMが使われることもあった。
こうなると、遅く、作るために職人技も必要になるディスク媒体はほぼメリットがなくなってしまった。結果としてディスクシステムはその使命を終え終焉したのである。
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