北方領土
読み:ほっぽう-りょうど

 日本国北海道に属する島々で、北海道の本島より北にある島々のこと。
目次

範囲
 
 歯舞諸島(はぼまい)、色丹島(しこたん)、国後島(くなしり)、択捉島(えとろふ)のことを主にいい、これを北方四島という。
 さらに、南樺太千島列島、カムチャツカ半島が含まれる。

島の一覧

千島列島の歴史

北海道、千島の開拓時代
 元はアイヌ民族の地で、島の名前もアイヌ語にちなんでいる。その後日本は対ロシアとの国防上の理由からこの地を開拓し、日本の領土となった。
 北方領土には、北方四島の北端である択捉島よりもさらに北に多数の島々が連なっており、これを千島列島という。千島列島もアイヌ民族が住んでいた。
 更に大陸の半島であるカムチャツカ半島もアイヌ民族が住んでおり、この地名もアイヌ語である。

明治期まで

日魯通好条約
 まず1855年2月7日(安政元年12月21日)、日魯通好条約締結により、択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間に国境線が引かれた。これにより北方四島は日本領、得撫島以北の千島列島はロシア領であることが確認された。
 しかし樺太島については決着が付かなかったため、この時には樺太島についてはなお国境線を定めず、両国民の混住地として現状維持がなされた。

樺太千島交換条約
 そして1875(明治8)年5月7日、明治政府は樺太千島交換条約を締結、日本が樺太を放棄する代わりに千島列島を譲り受けた。この時に本島と樺太島の間に国境線が引かれ、また千島列島も日本領となったが、条約に明記された18の島名には元々日本領だった北方四島は含まれていない。
 この時点では、樺太はロシア領、千島列島は全て日本領である。

ポーツマス条約
 次いで日露戦争に日本が勝利し、1905(明治38)年9月5日にポーツマス条約が調印され、10月16日に批准され、11月25日にワシントンで批准書が交換されたことで、北緯50度以南の南樺太が日本領となった。千島列島はこの条約とは無関係に、なお日本領である。
 この時点では、北樺太はロシア領、南樺太と千島列島の全てが日本領である。

大東亜戦争末期〜不法占拠
 そして時は第二次世界大戦末期、日本からすれば大東亜戦争末期の1945(昭和20)年8月8日、ソ連は日ソ間の中立条約を無視して日本に宣戦布告する。
 この卑怯極まりない暴挙により、現在に至る領有権の混迷を来すことになる。

スターリン、日本の占領を画策
 ポツダム宣言受諾の翌日1945(昭和20)年8月15日にスターリンは攻撃計画発案、16日にソ連軍機の偵察飛行、そして17日には散発的な爆撃を開始、遂に18日に本格的に占守島爆撃を開始した。
 日本軍の応戦むなしく8月28日に択捉島、9月1日に国後島と色丹島、9月5日には歯舞諸島まで、全千島と北方四島全てが占領された。
 この時住んでいた日本人の半数は自力で脱出、残りは抑留され樺太などで強制労働させられた後、1947(昭和22)年〜1949(昭和24)年にかけて強制的に日本に退去させられた。このため現在では日本領であり北海道の行政区域でありながら、日本人は一人も住んでいない。

サンフランシスコ講和条約
 1951(昭和26)年、日本はサンフランシスコ講和条約に調印、これにより千島列島と南樺太の権利を放棄した。
 但し北方四島は放棄されておらず、また重要なこととして、この条約に旧ソ連は調印していない。
 現在も全千島と北方四島はロシアに占領されているが、そもそもロシアが領有する根拠は何もなく、これは不法占拠ということになる。

千島列島の現状
 法的には、ポーツマス条約までの条件、つまり南樺太と全千島列島が日本領として日本に戻ることが正しい。しかし現状は、当該の島は一つ残らずロシアの支配下にある。
 ロシアでは、国後島・色丹島・歯舞諸島を「南クリル地区」と呼び、南クリル地区の行政府は国後島の国後郡泊村古釜布(ふるかまっぷ)に置かれている。
 また択捉島と、その北東にある得撫島(うるっぷとう)から新知島(しむしるとう)までの千島列島は「クリル地区」と呼ばれ、クリル地区行政府を択捉島の紗那郡紗那村に置いている。

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