武田晴信
読み:たけだ-はるのぶ
外語:TAKEDA Harunobu

 1521(大永元)年〜1573(天正元)年。幼名: 勝千代、太郎。法性院、徳栄軒。大膳大夫。信玄。信濃守。父:武田信虎。母:大井信達女 子:武田信義、武田勝頼、仁科盛信。
 1521(大永元)年、積翠寺で誕生。1536(天文5)年元服し、将軍足利義晴の偏諱をうけて晴信と名乗り、従四位下大膳大夫に任ぜられる。
 1536(天文5)年、信濃佐久群の海口城攻めで初陣を飾る。この時、大雪に見舞われ、城も容易に落ちそうもなかったので、父・武田信虎は軍議を開いて春になって雪解けを待つことにしひとまず退却することとした。ここで晴信はしんがりを申し出たのであるが、与えられた手勢300とともに武田は撤退したと浮かれ無防備となった海口城を攻め落としてしまった。これに対し信虎は手薄になった城を攻め落とせるのは当然だとした。この頃既に父子の仲は冷めていたのであった。
 信虎は武田家を戦国大名へと脱皮させることに成功した名将であったが、そのための度重なる戦さは家臣や領民への負担も大きく、また独断専行が多く残虐的な性格だったため、いつしか人々の心は信虎から離れていた。ここで、信虎は次男・信繁を溺愛し、嫡男・信晴を廃して信繁に家督を継がせようとしたため、一気にクーデターの気運が高まることとなった。こうして家臣たちに擁立されて信晴は天文10年6月14日(1541年7月7日)、父・信虎を駿河の今川義元のもとへと追放した。
 こうして武田家当主となった信晴は翌年から信濃侵略を開始し、諏訪氏、村上氏、小笠原氏を相次いで破り、勢力を急激に拡大した。ところが、晴信に敗れた村上義清、小笠原長清は越後へ逃亡し、長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めた。この要請に応じた景虎との間で1553(天文22)年以降1564(永禄7)年まで連年にわたって川中島で激戦を繰り広げることとなる。その中でも1561(永禄4)年の第四次の戦いは弟・武田信繁を失うなどの激戦であり特に有名である。この戦いでは両者痛み分けかのように見られているが、晴信は着実に信州の領国化を強固なものにしている。これも晴信が孫子の兵法に長じていたからであった。
 この間、駿河の今川氏、相模の北条氏と甲駿相三国同盟を結んでいる。1555(弘治元)年には木曽氏を降伏させ、さらに飛騨や美濃へも侵攻。続いて西上野へも侵攻したためここでも謙信と対戦している。
 1568(永禄11)年末には駿河の今川義元が桶狭間の戦いで敗死し弱体化が著しい今川氏との同盟関係を破棄し、徳川家康と計らってこれを攻め滅ぼしている。これに北条氏は怒り、武田氏との同盟を破棄して、長年宿敵であった上杉氏と対武田の越相同盟を結んでしまった。
 この北条氏との関係は北条氏康の死を契機として和議が結ばれるが、広く日本全体に目を向けるとこの間に織田信長によって上洛は果され、畿内は制圧されてしまっていた。これに対し、この信長のコントロールを嫌った将軍・足利義昭の音頭によって結成された信長包囲網の一翼を担い、上洛を行なうこととなった。この上洛の途中で遠江三方ヶ原で家康と信長の連合軍と対峙、これを粉砕した。
 意気揚々と軍を進めていたが翌年4月、三河野田城在陣中に発病。密かに帰陣する途上の伊那谷の駒場で没した。この死因には諸説があり、有力な肺結核説の他癌や甲州地方の風土病説などもある。『松平記』には晴信が野田城攻めを行なっている際に、月夜の宵美しい笛の音に誘われて本陣を出たところ銃の名手鳥居半四郎に狙撃されたとあるが、これは他には徳川方の資料にしか登場せず、信晴の死を自らの手柄にしたいという徳川氏による創作と見られている。
 領国経営の面では1547(天文16)年に『甲州法度之次第(俗に言う信玄家法)』を制定し、釜無川に信玄堤を築くなどの治山・治水、交通制度の整備、城下町の建設などの民政にも努めている。また、和歌や詩文の才もあり、文武両道を備えた名将であった。
 ところで晴信は「晴信」としてよりも号の「信玄」としての方が有名である。この「信玄」という号が史料に現われるのは1559(永禄2)年に松原神社に奉納した願文である。

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