武田信勝
読み:たけだ-のぶかつ
外語:TAKEDA Nobukatsu
1567(永禄10)年〜1582(天正10)年。幼名:太郎。父:武田勝頼(嫡男)。
母の遠山氏(織田信長の養女)は信勝を産んで間もなく他界する。武田晴信(信玄)の遺言では正当な武田家の跡継ぎ。
1582(天正10)年、織田・徳川軍の侵攻が激しくなったので、協議の末、突貫工事中の新府城を捨て、小山田信茂の岩殿城へ退くことになったが、この時、信勝は「御旗・楯無しの家宝を焼き、城を枕に討ち死にすべし」と意見具申したという。その後、頼りとする小山田信茂にも裏切られ、天目山に追い詰められると、勝頼は「武蔵から奥州に落ちて武田家の再興をはかれ」と命じたが、信勝はこれを拒み、武田家の嫡子が元服の際に甲斐源氏の象徴の楯無の鎧を身につけ世継ぎであることを家臣に公表する儀式という「環甲の礼」を行なったのち自刃した。ところで、この儀式は本来は公卿か同盟国の大名がつとめるのが習わしであるが、この時は同行していた家臣の土屋昌恒を師におこなったという。『三河後風土記』では、信勝は十文字の槍で奮戦し、親子共に討ち死にしたことになっている。
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