エルサレム
読み:エルサレム
外語:Jerusalem
パレスティナの都市。ユダヤ教、
キリスト教
、
イスラム教
の聖都。イスラエルの首都。2000(平成12)年現在の人口は約72万人。
目次
概要
略史
紀元前
紀元後
十字軍による占領
パレスティナ分割決議後
概要
南東の隅には元々ヤハウェ神殿のあった場所にハラム・アッシャリーフと呼ばれるイスラムの聖所があり、岩のドームとアクサー・モスクがある。
また、聖所の周りを囲む壁の西側にはヤハウェ神殿の遺構があると信じられ、ユダヤ教徒はこれを「嘆きの壁」として重要視している。
中央部にはゴルゴダの丘の跡に建てられたといわれる聖墳墓教会があり、その場所までイエスが十字架を背負って歩いたという苦難の道(ピア・ドロローサ)がイスラム地区を通り抜けている。
略史
紀元前
古代においてセム系語族の神の礼拝地であった「シャレムの礎」を紀元前1000年頃にダビデが征服してイスラエル王国の首都とする。
その後ソロモンがヤハウェ神殿を創建したが死後イスラエルは南北に分裂、ユダ王国の首都となるが紀元前586年に新バビロニアに征服され壊滅。ユダ人はこの時バビロンに捕囚され、エルサレムはユダ王国再建の象徴となった。
ペルシア王キュロスが帰還を許すと、ユダ人はエルサレム再建にとりかかり、紀元前515年にヤハウェの第二神殿が完成。紀元前1世紀になりローマ帝国の支配下に入るとヤハウェ神殿は
大理石
のローマ建築に建て替えられるが、70年のユダヤ戦争によって破壊される。
紀元後
326年にウェヌス神殿の地下で十字架が発見されると、その場に聖墳墓教会が建設され、それを発端としてエルサレムはキリスト教都市として発展していった。
しかし637(舒明天皇9)年に包囲されると、翌年エルサレム総大主教は降伏しカリフに安全と宗教活動の保護を約束させた。その際にムハンマドのミーラージュ出発点である岩が発見され、ウマイヤ朝を開いて岩のドームとアクサー・モスクを建造し、イスラム第三の聖都となった。
十字軍による占領
その後しばらくイスラム支配下で宗教の共存が続くが、1071(延久3)年のセルジューク朝のエルサレム占領によりキリスト教東方教会が迫害されていると認識したローマ教皇庁は十字軍を編成、聖都奪回に向けてエルサレムを攻める事になった。
しかし共存の実際は無視され、イスラム教徒とユダヤ教徒を追放し、キリスト教の聖都としてエルサレムを占領した。
1187(文治3)年にサラディンがエルサレムを奪回すると西の壁にそってマガーリバ・モスクを建造。十字軍と交戦中にも関わらずキリスト教徒とユダヤ教徒の居住を許可し、1537(天文6)年になるとオスマン帝国スレイマン1世によって都市開発が行なわれ周壁などが建設された。
スレイマン1世によって建設された周壁が取り囲む旧市街(東エルサレム)は、北西部にキリスト教徒区、南西部にアルメニア人地区、南部にユダヤ教徒区、東部がイスラム地区に分かれている。
パレスティナ分割決議後
イギリスによる委任統治の終了の前年に開かれた国連総会におけるパレスティナ分割決議により、パレスティナは国家に属さない特別地区とすることが提案され、ユダヤ教徒はそれを受け入れて
イスラエル国
を成立させた。
この和平合意は、様々な思惑によるものだった。アメリカは、パレスティナが大きくなりすぎないよう二国に分割し互いを消耗させる、という、かつての
インド
・パキスタンと同様の考えがあった。イスラエルにとっても、コストの掛かる占領地の管理をパレスティナ人自身(PLO、パレスティナ解放機構)にやらせることで、コスト削減と平和の享受というメリットがあった。
しかしアラブ諸国(ヨルダン)はこれを認めず、第一次中東戦争の結果1949(昭和24)年にエルサレムは東西に分裂、後の第三次中東戦争を経て東エルサレムがイスラエルに併合され休戦となった。しかしその後紛争が続き現在に至るまでエルサレム問題は解決していない。
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