洛中
読み:らく-ちゅう

 みやこ(平安京)の中。つまり今で言う京都市の市街地の内側。正確には洛とは平安京左京を言うが、時代の変遷もあり、その範囲については一定しない。
目次

概要
 平安京は、古代支那の洛陽をモデルとして作られた都で、一条大路(現在の一条通、以下同)を北端、九条大路(九条通)を南端、無差小路(葛野大路通)を西端、東京極大路(寺町通)を東端とし、現在の千本通が平安京時代には朱雀大路として中央を南北に貫く大通りとなっていた。
 そして当時は唐王朝風に、左京を「洛陽城」、右京を「長安城」と呼んでいた(実際に築城されていたわけではない)。
 このうち栄えたのは東側の「洛陽城」であったことから、みやこ=洛となり、西側も含めた全みやこの内外を「洛中(または洛内)」「洛外」と呼ぶようになった。

特徴

範囲の確定
 洛中の範囲は曖昧だが、この範囲を最初に確定しようと試みたのが安土桃山時代の豊臣秀吉で、1591(天正19)年の京都大改造でのことである。
 秀吉は、応仁の乱で荒れ果てていた都を再興しようと試みた。そして、外敵の来襲に備える防塁として、更に鴨川の氾濫から市街を守る堤防として、この年に莫大な経費と労力を費やして都全体を御土居(おどい)と呼ばれる土塁と堀で囲んだ。これによって、都の範囲が確定したと言える。
 形はいびつだが、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれ、この御土居の内側が洛中、外側を洛外と呼ばれるようになった。御土居の要所には京の七口と呼ばれる七箇所の出入口が設けられた。鞍馬口、丹波口などの地名はその名残である。

平安京と洛中
 平安京の範囲と洛中の範囲には、必ずしも直接の関係はない。
 平安京が作られた当時の平安京の外側は、畑や、当時一般的だった竪穴式住居による民家が存在するだけだったが、平安京が作られて以降、市街地はその外へも広がっていた。そこで都の範囲は、平安京よりも特に北に広い範囲となった。
 平安京は綺麗な長方形であるが、御土居で囲まれた範囲はその数倍の広さを持つ、そしてかなりいびつな形状となった。
 かくして、この御土居で囲まれた範囲が、最初に確定した「洛内」ということになる。この「洛内」は、北に広がったが、一方で西側は平安京の内側に作られており、西は狭くなった。
 大まかには、北は堀川通加茂街道から少し南側から南西方向、大宮交通公園を経て、府道31号から少し西に史跡として残る付近まで。西は概ね西大路通付近、東は概ね河原町通となり、南は東寺の南である。御土居は形がいびつであるため、現在の京都駅は平安京の範囲ではあるが御土居の南側となっており、つまり京都駅は洛外にある。

江戸時代
 江戸時代になると天下太平の世が続き、外敵の脅威もなくなった。また市街地も洛外に広がり続けていたことから御土居は次第に無用の存在となり、堤防の役割を果たしていたものを除いて徐々に取り壊されていった。
 このため現在では北部などに僅かに名残を留めるのみとなっているが、御土居の跡は現在でも市内の幾つかの場所で見られる。うち、1930(昭和5)年に8箇所が「史跡」に指定され、1965(昭和40)年には北野天満宮境内のものが追加で1箇所指定され、これを著している時点で9箇所が史跡として指定されている。これら以外では、北区の大宮交通公園内、中京区の北野中学校内などに、部分的に御土居が残っている。
 またこの江戸時代頃には、京の七口の一つ鞍馬口が設けられていた鞍馬口通が洛中と洛外の境界とされ、東が鴨川、西と南が御土居、北が鞍馬口通となった。

明治時代
 明治時代になると、市内に路面電車が走るようになった。
 この範囲、つまり北大路通東大路通、九条通、西大路通で囲まれる範囲の内側が洛中と考えられるようになった。

現在
 路面電車も廃止された現在では、洛中・洛外という認識も市民からは薄れており、意識されることも殆どなくなった。

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