対馬
読み:つしま
外語:Tsushima Island
長崎県にある島の一つで、国境の島の一つ。島の自治体は一つで、長崎県対馬市がある。
目次
島に関する情報
自治体
地勢
日本領への編入
郵便・電話
運輸
道路
道の駅
鉄道
飛行場
島の現状
転県運動
対馬問題
対朝鮮
戦後間もなく
自衛隊
島の歴史
略史
島に関する情報
東経129°20′付近、北緯34°付近に位置する島。面積は708.66km
2
で、日本では、
択捉島
、
国後島
、佐渡、
奄美大島
に次ぎ5番目に大きい島である。
九州最北端で、九州と
東支那半島
(朝鮮半島)の間にある。
本土
から132km、福岡から147km、隣国である
大韓民国
(以下
南鮮
)の釜山(ふさん)まで49.5kmという国境の島であり、かつ国境紛争の島でもある。
対馬の南東方向には
壱岐
がある。
自治体
2004(平成16)年3月1日に対馬の6町が合併し、1島1市の「対馬市」が誕生した。
それまでは島は対馬支庁に属し、下県郡の厳原町、美津島町、豊玉町と、上県郡の峰町、上県町、上対馬町があった。この合併と共に下県郡と上県郡は所属自治体がなくなり消滅した。対馬支庁も管内町村消滅に伴い、3月31日をもって消滅した。
地勢
島の89%は山林であり、車でも移動は困難な島である。厳原から上対馬まで、車でも2時間半かかる。
日本領への編入
正確な時期は分かっていない。しかし卑弥呼について書かれていることで有名な
支那
の古文献「魏志倭人伝」中で倭国領とされる對馬國(写本により異同あり)は対馬に同定するのが一般的である。役人の名も書かれていることから、当時から倭国による支配が確立していたと考えられる。
この頃は対馬のみならず、東支那半島の南端と西部も倭国領であったと読み取れる記述が成されていることから、今は南鮮領と考えられている済州島(さいしゅうとう)さえも当時は倭国領であったことが分かる。
また、古事記には津島、日本書紀には対馬嶋の名で書かれている。
郵便・電話
郵便番号は817-xxxx。電話の
市外局番
は0920。
運輸
道路
国道と何本かの県道が走る。島内の国道は一本、国道382号。
道の駅
島内に
道の駅
はない。
鉄道
島内に鉄道はない。
飛行場
島の中部に対馬空港という地方管理空港がある。滑走路は1900m×45m。
島の現状
転県運動
対馬は現在、長崎県に所属している。しかし現在、島民はそれに満足しておらず、福岡県への転県運動をするグループが少なからずあるようである。
対馬問題
対朝鮮
かつては、本土と東支那半島ならびに大陸の往来に重要な役割を果たした島である。それゆえ、元寇など、半島からは何度も攻め込まれた。また島の方言に
朝鮮語
起源のものがあったり等、いくらか朝鮮の文化が残っている。
さてこの島だが、南鮮は自国領であると主張していて、
竹島
と同様、いつ攻め込まれるか分からない状況下にある。これを対馬問題という。
戦後間もなく
武装占拠されている竹島と違い、対馬には
日本人
が住んでいる。
戦後間もない頃には、島には刃物を持った朝鮮人がうろつき、日本人の島民が傷つけられる傷害事件が頻発していた。
そこで国防と
国民
保護のため、
自衛隊
は対馬に「やまねこ部隊」と呼ばれる部隊を配置している。島に自衛隊が駐屯を初めてから、このような朝鮮人はいなくなり、島は平和になった。
自衛隊
この部隊には単身赴任してまで国防に従事している人もいる。
こういった地道な努力のお蔭で、我々は毎日、安穏と平和を噛み締めることができるのである。感謝しなければならない。
島の歴史
略史
3世紀頃: 「魏志倭人伝」に日本領である旨書かれる
1019(寛仁3)年: 刀伊の入寇(といのにゅうこう)
1274(文永11)年: 元寇(げんこう)
1419(応永26)年: 応永の外寇(おうえいのがいこう)
1869(明治2)年: 対馬藩は厳原藩と改称
1871年7月(明治4年5月): 廃藩置県、厳原藩は厳原県となる
1871年9月(明治4年7月): 佐賀県と統合し伊万里県を設置
1872年9月(明治5年7月): 長崎県へ転県
2004(平成16)年3月1日: 2郡6町が合併し、対馬市が市政施行
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