武田義信
読み:たけだ-よしのぶ
外語:TAKEDA Yoshinobu

 1538(天文7)年〜1567(永禄10)年。太郎。父:武田晴信(信玄)。母:三条公条女。室:今川義元女。
 1552(天文21)年、善徳寺の会盟により駿河の今川義元の娘を妻に迎える。翌年に元服するが、この際に将軍・足利義輝の偏諱を受け、一字を授かり、義信を名乗る。1554(天文23)年に信濃伊那群の知久氏攻略で初陣。
 1561(永禄4)年の川中島の戦いで父・晴信と意見が対立、不和となる。更に妻の実家である今川家への父の高圧的な政策に反発し、親子間の軋轢は決定的なものとなる。1565(永禄8)年、謀反が発覚して東光寺に幽閉され、翌々年死去。自害説と病死説があるが状況からして自害説が有力。
 武田家は代々父子が争って来て、子が勝利をあげてお家を発展させて来たのであるが、ここで子・義信が父・晴信に負けたことが武田氏没落の始まりであるとも言える。義信の能力自身は特に問題無く、義信及び武田氏にとって、子が親を負かすことが出来ないほど有能すぎる人物・晴信を輩出してしまったのが不幸だったのかもしれない。

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