斉藤利三
読み:さいとうとしみつ
外語:SAITO Toshimitsu

 1534(天文3)年〜1582(天正10)年。内蔵助。明智光秀の筆頭家老。春日局の父。母は明智光秀の妹とも言われている。
 利三は道三の「新斎藤」ではなく美濃守護代の「古斎藤」の血を引き、はじめ斉藤義龍、次いで稲葉一鉄に属し、一鉄の従弟妹を妻に迎えた。しかし、一鉄の乱暴に耐えかね、1580(天正8)年、明智光秀に仕える。親戚に逃げられては格好がつかないと一鉄は利三の返還を織田信長に訴えた。信長もこれを了承したが、光秀は利三をかばい続けた。信長は激怒し、光秀を折檻した。そんな仕打ちを受けながらも自分を庇ってくれた光秀に利三は感激し、生涯の主とすることを決めた。その一方で、この事件で光秀は信長に恨みを持ち、後の本能寺の変に至った原因の一つともされている。
 はれて明智家臣となった利三は1万石の俸禄を貰い、丹羽に住んだ。丹波攻略後は黒井城主となる。春日局はこの黒井城で生まれている。明智家中では筆頭家老で、本能寺の変に際しては明智秀満と共に光秀から事前に謀反の意図を伝えられていた。
 山崎の合戦では先鋒として奮迅の活躍を見せるが劣勢はいかんともしがたく、敗戦。近江の堅田で捕らえられ、京の六条河原で斬首。その首は光秀の首と共に本能寺にさらされた。ところがこれを親友の海北友松が奪い取り、京都黒谷の眞如堂に手厚く葬っている。
 また利三の妹は長宗我部元親の室であり(利三の母親が光秀の妹とすれば元親室は光秀の姪となろうか)、そのツテにより、光秀は信長と元親の間を取り持っている。しかし、信長が後日元親との関係を破談にしたので光秀の面目は丸潰れとなり、これも光秀が本能寺の変に動いた説の一つとなっている。

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