福澤諭吉 |
辞書:文化用語の基礎知識 文学編 (LLITE) |
読み:ふくざわ-ゆきち |
外語:FUKUZAWA Yukichi |
品詞:人名 |
慶應義塾を設立した、近代日本を代表する思想家。真の「先見の明」を持っていた超賢者の一人。
D壱万円券、E壱万円券(現行紙幣)の表面に、彼の肖像が描かれている。
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個人情報 |
中津藩士福沢百助の子として生まれる。
略歴 |
1854(安政元)年に長崎へ出て蘭学を学ぶが、オランダ語に限界を感じた後は英学に転ずる。
当時としては西洋に通じた人物で、1866(慶応2)年〜1870(明治3)年に掛けて「西洋事情」を刊行する。
その間の1868(明治元)年、自身が塾長をした洋学塾に、年号をとり慶應義塾と名付けた。これが現在の慶應義塾大学の前身である。
1872(明治5)年〜1876(明治9)年に掛け「学問ノススメ」を著し、支那・朝鮮の儒教思想を批判し、日本の文明開化を説いた。
朝鮮人に学問を与え、識字率を上げるためハングルを普及させ、自腹で活字を作り、1883(明治16)年に朝鮮初の新聞「漢城旬報」を発行。
1885(明治18)年3月には「脱亜論」を著し、支那・朝鮮とアジアを興すことは諦め、日本はアジアと決別しアジアから脱せよ、と近代日本の歩むべき道を示した。
1901(明治34)年に66歳で没する。東京都港区元麻布の麻布山 善福寺に葬られた。彼の戒名は、生前の人なりを表わした「大観院独立自尊居士」が送られた。
脱亜論 |
諭吉の説いた「脱亜論」は、あまりに有名である。
脱亜論は、諭吉の経験に基づいているものであり、現在日本でもこの論は肝に銘じておく必要がある。
聖徳太子、伊藤博文、福澤諭吉。お札になる人は、なるだけの理由がある。
脱亜論の要旨 |
以下に現代語意訳を掲載する。
日本の不幸は支那と朝鮮だ。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、過去に拘り続ける支那・朝鮮の精神は千年前と違わない。
国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、欧米と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
脱亜論の起承転結 |
諭吉は、未開の原始人が住む朝鮮を文明国にするためには、世界で起こっていることを知り、文明開化の意味を知る必要があると考えた。
そこで「馬鹿朝鮮人のために現代ハングルを作ろう」と考え、大昔に作られながら使われていなかったハングルを復活させた。
その後、自腹でハングル活字を作り漢字ハングル混じりの新聞を発行して普及に勤めた。
これで、馬鹿でも新聞が読めると考えた。
諭吉の弟子、井上が1883(明治16)年に朝鮮で初の新開 "漢城旬報" を発行したところ、漢文の読めない多くの民衆でも読めるとあって人気を博し、漢字・ハングル混合文の普及に寄与した。
朝鮮の留学生に塾の金を持ち逃げされるなどの事件が発生。
朝鮮人はあまりにも馬鹿すぎた。さすがの諭吉も遂に愛想が尽きる。
諭吉「日本の不幸は支那と朝鮮だ」
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