東京めたりっく通信
読み:とうきょうメタリックつうしん
外語:Tokyo Metallic Communications Corp.

 かつて、東京近郊をサービス地域に、xDSLサービスを行なうベンチャーとして登場したネットワークサービス企業。
目次

会社概要

基本情報
 以下は、当時の情報

沿革

概要
 ADSLを初めとするxDSLサービスのベンチャーであり、わずか2年間ではあったが様々な実績と教訓を通信業界に残した。
 NTTという巨大な敵の存在、当時の郵政省との交渉、そしてNTT光ファイバー網の解放の勝ち取りなど、日本の通信インフラの開拓史が、この2年間に濃縮されている。
 しかし銀行と野村証券の裏切りにより同社はソフトバンクの手に渡ることになり、これを元に資金を得たソフトバンクは現在、携帯電話事業にまで手を出すことが可能となったのである。

変遷

設立前
 遡ること1995(平成7)年末、小林博昭らはADSLシステム一式(ADSLに加えて、画像サーバーやインターフェイス回路など)をソフトバンクに納入した。ソフトバンクはADSLシステムの最初の購入者となった。
 孫正義の社長室に設置に赴いたのも、小林博昭自身であった。孫はその当時よりADSLに強い興味関心を持っていたようである。
 また、三鷹駅を最寄りとする「NTT電気通信研究所」(現在のNTT武蔵野研究開発センタ)にも翌年、同じシステムが納入された。

モデムチップ
 東京めたりっく通信が使用したADSLのモデムチップは、ベル研究所と、AT&T社の日本法人だったAT&Tパラダイン社によって開発されたものである。
 これは、小林博昭が当時AT&Tパラダイン社の代表で、AT&Tでそのメンバーだったことによる。

ソフトバンク
 東京めたりっく通信設立後、ソフトバンクの孫正義は東京めたりっく通信を欲しがっていた。
 1/3の株式を要求し、小林博昭代表はそれに賛成をしていたが、他のメンバーの賛成を得ることができずお流れとなった。

野村証券の陰謀
 野村証券が当時のソフトバンクの幹事証券であり、東京めたりっく通信の監事会社でもあった。
 当時、東京めたりっく通信の毎月の収入は3億円を越えてはいたが、上場して資金調達をしないと早晩、資金がショートする状況でもあった。
 そこで小林博昭代表は、野村に今が上場のチャンスであるとして上場を持ちかけた。しかし野村証券は、「金は幾らでも野村銀行(当時の大和銀行)から調達できる。これから1年くらい経てばもっと株の価値が出るから、1年間様子見よう」と断った。しかし、実際には1円の金も大和銀行からは出てこなかった。
 他の投資会社も、NTTと対峙するような仕事は難しいだろうとの判断で投資には消極的だった。小林代表の必ず未来はあるとの説得を理解できず、最終的に彼らの投資は無駄な投資になってしまった。

野村証券と朝日新聞
 東京めたりっく通信は遂に資金がショートして金がなくなった。
 資金が尽きてしまったことを、東条巌会長が新聞記者に一言しゃべってしまった。朝日新聞の原淳二郎記者はこれを特ダネとし、5段抜きで「東京めたりっく通信、金融危機」として翌日の朝刊に掲載した。これが東京めたりっく通信をレイムダックにしてしまった。
 当時金を出そうとしていた投資者が一斉に手を引く結果となり、こうして経営は遂に破綻した。すなわち、この朝日新聞の記事が最終的に会社を潰したものと言える。しかしベンチャー企業など、いつでも金がないのである。
 その後野村証券は、只の紙くずになった株式を、孫正義の所へと全部持って行ったのである。
 この経緯は、野村の陰謀に掛かって、両者の幹事会社であった野村証券が東京めたりっく通信の株式をゼロにして(金がなくなり、倒産寸前に)、東京めたりっく通信を欲しがっていたソフトバンクに持って行った、ということが想定される。
 東京めたりっく通信は、不祥事続発の野村にしてやられたのである。

終了時のサービス
 ソフトバンクグループに吸収される直前の2001(平成13)年6月現在、ADSLサービス価格はダウンストリーム1.6Mbps、アップストリーム288kbps時で5500円/月(Familyプラン)。
 他に固定IPアドレス&独自ドメインが利用できるAdvanced ADSLシリーズ(32,000円〜)プラン、SDSL(上下ともに768kbpsで38,000円〜)プランがあった。

内情

光ファイバーの開放
 東京めたりっく通信が経営破綻するより前の2000(平成12)年12月26日、NTT地域会社は光ファイバー網を他の通信事業者にも有料で開放する方針を決定した。
 その貸出の第一号は東京めたりっく通信であった。

ATMかIPか
 東京めたりっく通信はATMをバックボーンにしていた。
 NTT地域会社の光ファイバー網開放によって、毎月5000万円のATMのバックボーン費用は、数百万円にまで値下がりした。しかし、当時既に資金の尽きかけた東京めたりっく通信にとっては、大した意味の無いものであった。
 最初に、バックボーンのシステムをATMにするかIPにするか議論があったが、このような重要な議論も小林代表以外のメンバーは理解ができず、多数決でATMが選ばれた。小林博昭は、これが大きな選択ミスだったと考えている。その理由は以下の通りである。
 例えば、IPバックボーンにして、その後急成長を遂げた長野県協同電算(長野農協の100%子会社)は佐藤千明の選択により、現在もADSLのサービスを何万回線も続けることができている。
 一方、ATM交換は僅か5Mbpsを局間で接続するだけでNTTの局舎毎に毎月50万円もの費用をNTTコミュニケーションズに支払わなければならなかった。しかも、ATM交換機を各局舎に置くなどの無駄な費用まで発生した。
 この費用を出すためには、毎月1万人分の加入者の費用が必要だった。この収益構造は光ファイバー網の開放によって数十分の一にまで小さくなったものの、しかしこの時には時既に遅しの状態であった。
 この開放劇も、ADSLは日本の電話回線には不向きであるためやらないと公言していたNTTがADSLサービスを提供するに際し、他社がNTTと同じ土俵で競争できるよう、郵政省がNTTに光ファイバー網の開放を迫って実現したものだった。

Yahoo! BB
 東京めたりっく通信の存在は、この企業が無ければソフトバンクの現在は無いとも言えるほどの存在であった。東京めたりっく通信が経営破綻しソフトバンクにタダで渡った時の250名の従業員が即戦力となり、ソフトバンクの事業Yahoo! BBの立ち上げを可能としたのである。
 こうして、ADSLからの収益が、ソフトバンクの次の携帯電話事業へと繋がっていった。月額利用料金も、東京めたりっく通信のお陰で5500円になって、その後3800円前後でADSLの月額費用は推移して行くことになる。
 ソフトバンクの成長を下支えしたのが、孫正義が東京めたりっく通信から引き継いだADSL事業なのである。

その後
 電話網は光ファイバー化され、従来型の電話回線は将来的に撤去されるという話が進む現在にあっても、光ファイバーに比べて既に償却が完了したADSLネットワークは、ソフトバンクの大きな資金源となっているはずである。なぜなら、原価が掛からないネットワークが大きな収益を稼いでいるためである。
 NTTにとっても、1000万回線の電話回線をADSLの為に利用してくれると、回線あたり月額150円程度と見込まれるが、年間で180億円もの原価の掛からない収入をNTTにもたらすことになる。年間180億円ものコストの掛からない収入があるような企業は、そう多くないはずである。

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