通州事件
読み:つうしゅうじけん
盧溝橋事件から約3週間後の1937(昭和12)年7月29日、北京の西の通州で発生し、数百人の日本人居留民が虐殺された事件。第二次上海事変から支那事変、すなわち大東亜戦争に至る切っ掛けの一つとなった。
概要
1937(昭和12)年7月29日、日本軍守備隊の留守を狙い、「冀東防共自治政府」保安隊(支那人部隊)が日本人居留民を襲撃した。
元々、冀東防共自治政府とは日本の関東軍が擁立したもので、華北五省を中華民国から分離し第二の満州にする試みだった。しかし中華民国の国民党軍はこれに対抗、華北における反日気運を高めたことで、盧溝橋事件、そして通州事件が勃発することになる。
結果、通州事件により、通州の日本人居留民260人は人類史上でも類例を見ないほどの残虐な方法で虐殺された。支那人は殺害した日本人の屍体をも容赦なくいたぶり、日本軍が駆けつけた時には、もはや言語に絶する惨状であったという。
特徴
惨状
今も昔も変わらぬ、日本人の平均的な倫理観から見ても尋常ならざる状況だった。体験談などによると、次のようなことがあったという。
- 女は強姦され、陰部に箒を刺された女性の遺体があった
- 喫茶店のテーブルの上に女子店員の生首が並べられていた
- 斬首後に死姦された女性の遺体があった
- 腹から腸が取り出された遺体があった
- 針金で鼻輪を通された子供がいた
若い女性は強姦または死姦された上、針金を通されたり引きずられたりしていた。陰部が銃剣で刺されていたり、腹が裂かれていたりするものが多かったという。また、口中に土砂を詰められた遺体もあった。
中でも錦水楼という旅館は最も悲惨で、次のような惨状となったという(「中村粲著『大東亜戦争への道』惨!通州事件」から、第二連隊歩兵隊の桂鎮雄隊長代理の証言による)。
- 女将は抵抗したが、銃剣で刺され、陰部は刃物でえぐられて死亡
- 帳場や配膳室はひどく散乱し、略奪されたことを物語る
- 女中も全員殺害される。ひどくもがいて死んだようだったという。局部は露出していた
- 帳場配膳室では、男は目玉を繰り抜かれて上半身は銃弾で蜂の巣、女2人は背部から銃剣を刺され死亡
- 階下座敷には女2人の全裸死体。局部ほか全身に刺突の跡あり
- 喫茶店では、縄で絞殺された全裸死体
- その裏の日本人の家では、親子2人が惨殺。子供は手の指が切断されていた
- 南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上放置。胸腹の骨が露出し内臓が散乱していた
南京大虐殺?
現在、支那全土を支配しているのは中国共産党である。当時日本が戦った相手は中華民国であり、中華人民共和国ではない。中華人民共和国の中国共産党は、内戦で中華民国を台湾に追い払ったゲリラである。
その中国共産党は、南京で日本軍が大虐殺をした(南京大虐殺)とし、謝罪と賠償を要求している。
その状況は、支那人に言わせれば、日本兵は強姦はもとより、妊婦の腹を裂いて胎児を銃剣で突き殺すなど悪逆非道の限りを尽くしたのだとしている。
しかし、そのようなことは日本人の感覚ではありえず、日本人がそのようなことをするとは考えにくい。しかし通州事件を見れば、支那人たちが実際にやったことをお前らもやったと主張しているに他ならないことが分かる。
再検索