大和特攻作戦
読み:やまと-とっこうさくせん

 戦艦「大和」による最後の特別攻撃。旧日本軍の特攻作戦の一つ。
目次

作戦内容
 時は大東亜戦争末期、連合艦隊もその主力艦の殆どを失い、いよいよ戦局も敗戦濃くなってきた頃、アメリカ合衆国は兵力(以下、米軍)を沖縄へと集結させていた。
 いよいよ本土決戦も間近に迫り、このままでは日本が壊滅的打撃を被ることは確実、まさに非常事態であった。
 さて、連合艦隊には帝國海軍の誇る最強の戦艦「大和」が残されていた。この大和を沖縄へ特攻させ、米軍の本土上陸を一日でも先に伸ばそうとしたのがこの大和特攻作戦、正式名称「天一号作戦」である。

作戦の状況
 こうして1945(昭和20)年4月6日、大和、矢矧、冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、霞、初雪の計10隻の沖縄特攻艦隊が徳山港より出撃した。
 対する米軍も、この決死の出撃に対し敬意をもって艦隊決戦を挑もうとするのだが上層部がそれを許可せず、結局は航空機による爆撃となった。
 戦艦というのは、戦艦同士での戦闘のために作られているのであって、特攻艦隊と航空機の大編隊では勝負にならない。こうして遂に大和は沈没するのである。

作戦の目的
 さて、無謀でかつ自ら沈みに行ったかのような作戦であり、後年には多くの評論家から様々な批判がなされることになるのだが、特攻の目的は決して攻撃だけではない。
 これは神風特攻隊も同じだが日本人は死んででも抵抗するのだ、という姿を敵に見せておくことに意味があったのである。
 こういった犠牲なくして、容赦のないアメリカの日本への侵攻を食い止める術は、当時にはなかったのである。

一つの遺産
 こうして、意図したしないはともかく、この作戦には一つ大きな良き遺産を残した。
 まずこの作戦によって日本が沖縄を軽視していなかったことを証明して見せた。これは戦後、沖縄で住民による本土復帰運動に良い貢献をした。
 もし戦後、日本が沖縄を失うようなことがあれば事は重大であった。アメリカが沖縄を独立させるようなことがあれば、ほぼ確実に支那に攻め込まれ占領されていた。そうなれば日本本土ならびに台湾は無事では済まなかっただろう。
 現在の日本と台湾の安定は、大和特攻作戦あってこその賜物である。

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