日隆
読み:にちりゅう
1385(元中2)年〜1464(寛正5)年。室町初期の僧。本門法華宗の開祖。
至徳2年10月14日(1385年11月25日)に越中射水郡浅井嶋村(富山県高岡市郊外)で桃井尚儀と益子の子として生まれる。幼名は長一丸であった。応永3年5月10日(1396年6月24日)、幼年にして越中遠成寺に入り剃髪得度し、名を深円と改める。1402(応永9)年、京都妙本寺(のちの妙顕寺)に伯父の日存、日道を訪ね、第四世日霽(にちさい)に師事し、慶林坊日立と名を改めた。
しかし、当時の法華宗は腐敗しており、日霽の後を継いだ公家出身の月明もしかりであった。そこで日存、日道とともに改革運動を起こし、再三にわたって月明を折伏したが、聞き入れられず、三度妙顕寺を出て二度までは戻るのだが、三度目についに感嘆して同寺を去るとともに、1415(応永22)年、本門法華宗の本山として京都に本応寺を開いた。この頃名前を「日立」から「日隆」に改めている。1418(応永25)年、月明はこれに対し、刺客を送って日隆の殺害をはかった。日隆は辛うじて難を逃れたものの本応寺は破却されてしまった。このため、代わって河内に本厳寺を創設することとなる。そこから更に尼崎へと移り、その地に創設した本興寺を拠点に布教を展開した。
その後も布教活動に勤しみ、十四の寺を建立し、さらに後進の弟子たちが教えを誤らないようにと、「本門弘経抄」をはじめとして三千余帖といわれる多くの著述も行なっている。寛正5年2月25日(1464年4月10日)、尼崎の本興寺で80歳にて端座合掌(正座して掌を合わせた姿)のまま御題目を唱えたまま亡くなった。
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