不受不施派
読み:ふじゅふせは
日蓮の教義のうちの不受不施義を守るとして、かつて存在した宗派。
概要
不受不施とは、妙法蓮華経(法華経)を信仰する者以外からの施しは受けず、また他宗の者には施しをしないということ。
安土桃山時代の1595(文禄4)年、豊臣秀吉は、京都に天台宗の寺院「方広寺」を建立、大仏開眼のため千僧供養会を実施した。これにあたり、各宗派より僧が出仕を求めた。ここで困ったのは、不受不施義を持っていた日蓮宗である。出仕を拒めば、宗門は取りつぶされる。
ここで日蓮宗は二分した。不受不施義を守り出仕を拒む不受不施派と、出仕を受け入れて宗門だけは守ろうとする受布施派である。
結果、不受不施派の日奥は出仕を拒否し、京都市の妙覚寺を去った。日奥は対馬に流罪となる。
特徴
不受不施派は、幕府の要求を呑まない宗派ということで、キリスト教などと同様の邪宗門とされ弾圧を受け、見つかり次第流罪に処せられた。
幕府は不受不施派に対し、受布施派になるか、天台宗(経典が同じため)に改宗するかを迫ったという。
その間、不受不施派は不受不施義を実行するために、様々な策を練った。
- 不受不施派の僧侶は清派である「法中」(ほっちゅう)となる
- 中間的な僧侶として濁派の「法立」(ほうりゅう)を置く
- 行者は他宗派を装いながら、内信では不受不施を信奉する「内信者」となる
こうして、法中〜法立〜内信者という関係を作り、法立が在家者から財物を受け法中に取り次ぐという、異様な宗教組織となった。
しかしこの方式の問題は、法立が導師を勤めることができるのか否かという問題を生じ、これにより不受不施派は内部分裂した。
うち、不導師派は不受不施日蓮講門宗という新たな宗派となり、導師派は日蓮宗不受不施派として日蓮宗の一派となった。
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