フランク族
読み:フランクぞく
外語:Franks
ゲルマン民族のうち、北部ガリアを中心にフランク王国を建設した、西ゲルマンに属する諸部族。原住地は不明だが小部族に分かれてライン川右岸の中流域に定住していた。"フランク" とは勇敢や自由を意味し、ローマ人に長いブロンドや赤い髮の戦士として知られていた。
4世紀初頭、小部族の中から北ブラバンドに居住するサリ支族、ケルンを中心とするリブアリ支族、ヘッセン地方を中心とする上フランク支族が擡頭し、5世紀にはいるとサリ族が西進してシュルデ川流域にまで広がった.このころメロヴィング家がサリ族を掌握し、メロヴィング家のクローヴィスが王につくと、リブアリ、上フランク族を併合しつつ、ブルグンド・西ゴートなどの諸部族国家を撃破し、ガリアの大部分を統一してフランク王国(メロヴィング朝)を建設した。また西暦496年頃、カトリックに改宗してローマ教会の支持を固めた。しかし、クローヴィスの死後、王国はゲルマン法により4人の息子に分割され内訌の種をまき、その後も幾度となく分裂と統一を繰り返し、しだいにメロヴィング朝は実権を失った。分国内の豪族層が勢力を強め、官職を世襲化し、各分国は宮宰職が実権を握っていた。そしてアウストラシアの宮宰職を握ったカロリング家が擡頭してきた。
732(天平4)年、トゥール・ポアティエの戦いでイスラームの侵入を撃退したカール・マルテルが実質的なフランク王国の支配者となり、その子ピピン(小)は教皇ザカリウスの支持を得てメロヴィング朝最後の王ヒルデリヒ3世を廃位し、王位についた(カロリング朝)。フランク王国はピピンの子カール大帝のもとで最盛期を迎えることとなった。カールは幾度の遠征を経てザクセン族を平定し、ランゴバルド王国を併合、イスラーム勢力をピレネー山脈の彼方に追いやり、西はピレネー山脈から東はエルベ川におよぶ西ヨーロッパの大半の政治的統一を達成、ライン川以東のゲルマン人のキリスト教化、古典分化の復興などを進め、"カロリング・ルネッサンス"を行なって中世以降のヨーロッパ文化発展の基礎を作った。800(延暦19)には教皇レオ3世により西ローマ帝国の帝位を戴冠され、西ローマ帝国はフランク王国として復活した。
その後カロリング朝も分割相続により分裂の運命を辿る。カール大帝の子ルートウィヒ敬虔王の死後、帝国は3人の子によって相続争いの末に分割され、それぞれ後のドイツ・フランス・イタリアとなる東フランク・西フランク・ロタリンギアとなった。
フランク族は民族大移動による混乱を収拾し、ヨーロッパの政治的・文化的な統一を果たし、西ヨーロッパ最初のキリスト教統一国家として、のちのヨーロッパの国家や制度の母胎となった。
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