夏目漱石
読み:なつめ-そうせき
外語:NATSUME Souseki
小説家、英文学者。"我が輩は猫である"、"坊つちやん"、"こころ" などを記す。
1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸牛込の名主の末っ子として生まれる。本名、金之助。生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出さるが、大道の夜店に品物と並べて寝かされているのを姉が見つけ、すぐに生家に引き取られた。だが、やはり金銭的な問題から1歳の時に鹽原(塩原)家に養子に出される。しかしながら漱石10歳の時に養父母が離婚したため、鹽原姓のまま生家に引きとられた。漱石21歳の1888(明治21)年、夏目家に復籍すると同時に第一高等中学本科に進学する。
第一中学本科では同級に正岡子規がおり、子規の漢詩文集を漢文で評した時に用いた名前が "漱石" である。また、漱石は子規には句作において評を請い、それ以後両者は親交を結ぶ。
漱石23歳の1889(明治22)年、東京帝国大学英文科に入学する。このころから厭世主義に陥り、大学院に進学した頃には強度の神経衰弱に陥った。三年の時兵役逃れのために分家し、北海道に籍を移す。
漱石28歳の1895(明治28)年、大学院在籍のまま勤めていた東京高等師範学校の英語教師を突然辞し、山口高等学校に招聘されるも愛媛県松山中学(当時、尋常中学校)の英語教師となる。わずか1年であったものの、この間に『坊つちやん』の素材を得たり、子規との親交を深めていった。漱石29歳の1896(明治29)年、熊本の第五高等学校に赴任する。また、同年中根鏡子と結婚する。
漱石33歳の1900(明治33)年、文部省の官費留学生としてロンドンに渡り、本格的に文学論の研究を始める。しかしながら、日本と西洋の違いを痛感し、自分の研究の意味を疑い始め、留学費の不足や孤独感から最悪の神経症に陥った。その報は文部省にまで伝わり、子規の死去の報を受けた年、留学から帰国した。漱石36歳、1903(明治36)年のことである。東京に戻った漱石は、一高と東大に講師として迎えられる。
1904(明治37)年12月、高浜虚子に勧められ、句集『ホトトギス』の1905年1月号に『吾輩は猫である』を発表し、大評判となった。そして、以後続編を次々と発表する。また、併行して『倫敦塔』などの短編を書いた。翌年には『坊つちやん』、『草枕』、『二百十日』を書き、さらに翌年には『野分』を書き、盛んな創作活動を行なった。この時期の作品は人生に余裕を持って眺めようとする傾向 (低徊趣味という) が強く、洒落たユーモアや美的世界に遊ぼうとする姿勢から "余裕派" と呼ばれ、当時主流であった自然主義に対抗することとなった。
漱石40歳の1907(明治40)年、彼は「新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。」と述べて、東大教授への内示を断わり、東京朝日新聞社に入社する。新聞社専属作家として『虞美人草』を始め、彼の作品は後全て朝日新聞に掲載される。この年、胃病を発する。
『工夫』、『夢十夜』、『三四郎』を経て、『それから』以後の漱石は、初期の作風からうってかわって、エゴイズムの問題を中心主題とするようになる。しかし、「自己本位」を唱えたはしたが、常に「我執」の醜さに怯えた点で、「自我」の主張を唱えている自然主義と対立する。
漱石43歳の1910(明治43)年に発表された『門』は、『三四郎』・『それから』とともに "三部作" と呼ばれる。この年の夏、漱石は胃潰瘍で入院し、転地療養として伊豆修善寺に出かけたが、そこで大吐血し生死をさまよった。これを "修善寺の大患" と呼ぶ。この出来事が漱石の人間観や死生観に大きな影響を与えた。漱石の言う "則天去私" はこのときの心境が表わされている。大病の予後を東京の病院で養う間に授与された文学博士号を辞退し、世間を驚かせる。
漱石45歳の1912(大正元)年、『門』から一年半ぶりに書かれた長編小説『彼岸過迄』は、短編を重ねて長編小説を構成した最初の作品である。すなわち、現在の連作短編の草分け的存在と言える。
同年、『行人』に於いては主人公を狂気に追いつめ、『こころ』ではさらに自殺にまで追いつめた。このころの作品は、さらに我執を追究したものであった。
漱石49歳の1916(大正5)年、『明暗』を連載するが胃潰瘍が悪化し、未完のまま12月9日、その生涯を終える。
漱石は作品ごとに挑戦的な態度をとっており、現代でも通用する作品の書き方をしている。口語体ですべて書かれているのは勿論、連作短編など当時の文学の常識を覆したと言える。
漱石は3〜4歳の頃に天然痘にかかり、顔の左側に薄あばたが残った。生涯これを嫌ったため、漱石の写真は右からとられたものがほとんどである。また、このあばた顔のせいで文壇からは「あばた」と呼ばれた。
再検索